02/殺人事件

《七月九日・日曜日・友引》


 驟雨の夜であった。真昼の熱が染みついたアスファルトを、鋭い雨が打ち据える。夏の太陽が残した熱波と、雨夜の湿り気が合わさって、街にはむっとする臭気がこもっていた。

 そんな不快な夜の、ビルとビルの隙間を、ひとりの少女が駆けていた。おかっぱ頭の、和装の少女だ。身の丈に合わぬ竹刀袋を背負って駆ける彼女は、傘もささず、雨露に打たれるがままだった。

 彼女の足の運びは、生まれたての小鹿のように覚束ない。何度も足をもつれさせては、水たまりに頭から突っ込む始末。立派な和服も、泥水に汚れて見る影もない有様だ。

「............駄目だ」

 震える手で体を支え、何とか起き上がった彼女は、しかしてすでに這う這うの体。苦しげに眉根を寄せて、脇腹を押さえるその様子からは、彼女が何らか重篤な傷疾を抱えているように窺える。

「諦めて、なるものか」

 ボロボロの彼女だが、けれど瞳には不屈の闘志を宿していた。

 そしてその闘志の裏には、実は深い悔恨が根差しているのだ。

「これ以上、我らの不始末で人を殺させてたまるか......なあ、主さまよ」

 少女は自らに言い聞かせた。気を抜けばすぐに萎えてしまいそうになる気骨を、こうして奮い立たせるのだ。

 かつての「主」を呼び、その面影を思い出すたび、少女の肚の底はぐらぐらと沸き立つ。無限の熱が手足の先まで満ちてくる感覚。それこそ何でも出来そうな気がしてくる。

 けれどその心情とは裏腹に、実際の少女の肉体は、すでに限界をはるかに超えているのだった。

「お、のれ............」

 指の先から、体が崩れてしまいそうな気がした。煮崩れた豆腐のように、雨に溶け出してしまいそうな。

「諦めてたまるか、諦めて......たまるか」

 彼女の胸を占める、地獄の窯のような悔恨と憤怒。それだけが彼女をこの世に繋ぎとめている。それらの激情の淵源は、自身の無力であった。

――また、止められなかった。

――目前の悲劇を!

 目をつぶれば、即座に瞼の裏に蘇るのだ。無残にも蹂躙されていく、罪なき人の姿が。そしてその理不尽を為す、悪鬼の姿が!

――止めねばならぬ。

――私が、私がやらねばならぬのだ。

 けれどその熱意と反比例するように、彼女の肉体強度は衰えていく一方だ。

 和装の少女は、そんな自身の限界に見て見ぬふりをして、再び駆け出した。

 自分を付け狙う破滅の足音を、その気配を、ひしひしと背後に感じながら。


《七月十日・月曜日・先負》


 月曜日、早朝。市内のとある中学校の入り口が、週のはじめから物々しい雰囲気に包まれていた。本来児童が溌溂とくぐっていくはずの校門が、鮮烈な青色のシートに覆われている。その外側には「立入禁止」と書かれた黄色のテープが張り巡らせてあり、数名の警察官が後ろ手にして直立し、野次馬を監視していた。

 立入禁止テープの向こう側では、大勢の警察官がせわしなく動き回っている。その中には、禮泉崇史の父にあたる禮泉泰典(れいぜんやすのり)も混じっていた。

 県警捜査第一課所属の刑事である泰典は、これまで相応に悲惨な現場というものを見てきた。欠かさずゲロ袋を持ち歩いていた時代も今は昔だ。

 けれど、さしもの彼をしても、これほどまでに人間性を蹂躙せしめる現場と遭遇するのは初めての経験だった。

「いったい何だ、これは......」

 絶句するより他になかった。ブルーシートの結界に秘められた最奥、そこに在ったものは、彼の理解の範疇を超えていた。

「先輩......俺、ちょっと............」

 後ろから付いてきた後輩の顔色が、さあっと青ざめた。彼は数秒間その場に立ち尽くしたかと思うと、咄嗟に口を手で覆って、シートの外側に駆け出して行った。やがてそちらからゲーゲーと嘔吐の音が聞こえてきた。

 鑑識のひとりがシートの出口にちらりと目を向けて、泰典に耳打ちしてきた。

「怒らないでやってくださいよ。こいつは、吐くほうが普通です」

「わかってるさ。君、こんな現場見たことあるか?」

「初めてです」

 話しつつ、むせかえるほどの鉄の臭いをかき分けて、泰典は一歩、二歩と踏み出した。現場を荒らさないギリギリの距離まで「ソレ」に近づき、その恐るべき様相をまじまじと観察した。

「ソレ」は女性の遺体だった。校門の脇の壁に寄りかかって、座った体勢で放置されている。遺体は衣服を残らず剥ぎ取られており、一糸もまとっていない。けれどその姿は、女性の肉体が本来持つ美しさを微塵も残してはいなかった。

 徹底的に、損壊されていた。

「この顔、いったい何をやればこんなことになるんだ......?」

 まず泰典の目を引いたものは、被害者の顔だ。

 端的にいえば、その女性の顔は原型も留めず、捻り潰されていた。回転工具にでも巻き込まれたのだろうか。眼球が両方の眼窩から飛び出して零れ落ち、捩じれた下顎は真っ二つに割れて頬に食い込んでいた。噛み合わせにあたる歯列はことごとく砕け散り、その破片があらぬ方向へ突き出している。頭蓋骨が粉砕され、頭の肉は陥没し、髪の毛が皮膚ごと引きちぎられてぶら下がっている。

「それに、これは......」

「見た通りです、ワタ全部抜かれてますよ。子宮までね」

 鑑識の言葉通りだ。無残なのは頭部だけではない。女の下腹部に、ぽっかりと穴が開いていた。内臓がすべて掻き出されている。掻き出された内臓は、彼女の足と足の間に山と積まれていた。

「何を使ったと思う?」

「はっきりとはわかりません。傷口がズタズタで......」

 すると近くにいた別の鑑識が口を挟んだ。

「熊が爪で掘り返したみたいな外傷ですよ」

「熊......ねえ。なんだったら、熊のほうがまだマシなんだがなぁ」

 泰典は呆れて顔を上げた。そんな彼の視線の先には、校門の石塀があった。被害者の頭の上、この現場で一際目立つそこに、真っ赤な文字が書かれていた。

 "FUCK ME!!"と。

 血文字だ。大量の血液を使って、その文字列は叩きつけてあった。

 熊のような獣が、こんなメッセージを残すものか。これはやはり、間違いなく人の悪意が為した事件なのだ。

 するとその時、鑑識のひとりが思わずといった調子で独言した。

「これで三人目か......」

「やはりそう思うか?」と泰典。

「まあ、間違いないでしょ」

 その場にいた警察官が、次々に同意を示した。

 そう、ここにいる人々は、実はここ数週間のうちに、これと近似した現場を目撃していた。一般に「巻根市連続殺人事件」と報道されている残虐事件の現場である。

「調子に乗りおって」

 泰典はそう唾棄するように言った。一見して、犯行の残虐性はエスカレートしているとわかったからだ。

「人非人めが」

 食いしばった歯からギリギリと音が鳴った。

 こうして、巻根市を襲う連続殺人事件に、新たな被害者の名が加えられた。


 月曜日。週の始まりのこの日は、学期末テストの返却ラッシュからはじまる、はずであった。

 崇史が所属する剣道部の朝練がはじまるころ、更衣室で制服から走り込み用のジャージに着替えていると、その場にいた生徒たちの携帯電話が一斉に振動した。巻根第一高校のメーリングリストへの連絡であった。それによると......

「自宅待機?」

 肩を回してストレッチしながら、崇史の友人である蒔矢柳司が素っ頓狂に言った。

「何でまた?」

「わからん。すでに登校している生徒は、連絡があるまで教室で待機だと」と崇史。

「何かあったか? 爆破予告とか?」

 おどけたように柳司はいう。

 崇史の脳裏をよぎったのは、昨晩見るとはなしに眺めていたニュース画面であった。

「もしかして、また、か?」

 また......、という言いまわしの指し示す事柄はひとつだ。

 連続殺人事件。

「どうもそうみたいですよ」

 横から後輩が口を出してきた。

「ネットでそれっぽい情報がパラパラと、ホラ」

 差し出された画面を覗き込むと、ブルーシートと黄色のテープで封鎖された風景写真が映し出されていた。SNSで見つけた画像らしい。

「どこだ? これ?」と柳司。

「西中ですって」

「すぐ近くじゃねえか。マジかよ」

「うん? だったら朝練はどうするんだ? やるのか?」と崇史。

 みな揃って困惑していると、更衣室の扉が開いて大柄の顧問教諭がのっそりと現れた。

「お前ら、メール見たか? 見たら、朝練はいいから教室で待ってろ。部長、あと頼むぞ」

 それだけいって顧問は足早に去っていった。再び職員室に戻るらしい。

「だ、そうだ」

 今度はみな揃って二年生の部長に視線を向けた。部長は大きなため息ひとつついて、手を打ち宣言した。

「総員、撤収!」


 結果だけいえば、その日、高校の全生徒は自宅待機を命ぜられた。事実上の休校扱いである。

 理由はいうまでもない。一連の殺人事件に新たな犠牲者が加えられたからだ。現場は巻根西中学校の校門前。崇史の通う巻根第一高等学校からは、三キロも離れていない。

 これには、普段のんきな高校生諸氏も、さすがに不安の色を覗かせていた。特に女子生徒は、本気で怯えきってしまった者もいたようだ。

 やがて、すでに登校した生徒たちにも即時帰宅を命ずる処置が取られた。彼らは複数人の集団で下校するようにと厳重に言いつけられ、解散することになった。

 本来であれば、崇史もすぐに帰宅して、部活の自主練なり自宅学習なりに励むつもりだったのだが......。

「お、やってるやってる。なんだよ、野次馬集まりすぎだろ。みんなヒマか?」

 何故か彼は、友人の柳司とともに殺人現場を遠巻きに取り囲む野次馬の群れに加わっていた。

「君に言われたくはないだろう。まったくどうしてこんなところに......」

「何だよ崇史。お前は気にならないのか? 殺人現場だぜ」

「ならないな。少なくとも、好奇の目を向ける気分には」

「そうかっかしなさんな。おっ、もうテレビ局来てる。まったくハイエナ並みの嗅覚だぜ」

 長身の彼は人垣の中でも余裕そうだ。比して崇史はどちらかといえば小柄な方だ。無理に背伸びしてまで見たいものでもないから、後ろで柳司の気がすむのを待っていることにした。

 現場を見たいと言い出したのは柳司だった。崇史はただの付き添いだ。一緒に行こうと押し切られてしまった結果、彼はここにいる。

「気は済んだか」

「まあそう焦るなって」

「君はいいかもしれないが、僕は困るんだ。万々が一、父さんにこんなところを見つかったら......」

 崇史の父は厳格な警察官だ。捜査一課の所属であるから、この場にいつ現れるともしれない。

「ああそっか、お前の親父さん警察官だっけ」

 言いながらも柳司は現場を見据え続けている。何をそんなに熱心に見ることがあるのだろう。ブルーシートの中が見えるならまだしも、殺害現場は衆目にさらされることのないよう、完全に封鎖されているのだから、見て楽しいものなど何もあるまいに。

柳司の熱心さにつられて、崇史もつま先立ちになって現場に目をこらしてみた。まあ確かに、複数の警官がひっきりなしに行きかう不穏さは、実に非日常的ではあるが。

 傍らに立つ柳司の顔をちらりと覗き見た。何やら真面目な顔をしているように見えた。気のせいだろうか?

「なあ崇史」

「ん?」

 柳司が唐突に肩を叩いてきた。

「あれ、見ろよ」

 そういって彼は、遠巻きに現場を眺める人垣のはずれに向けて、顎をしゃくってみせた。示された方角に視線を向けると。

「あれ、一組の杠葉(ゆずりは)さんじゃないか?」

 見慣れたセーラー服姿が目に入った。巻一高の制服だ。

「杠葉?」

「ほら、一年のとき同じクラスだった」

「ああ彼女か。本当だ」

 腰まで届く赤みがかった長髪。凛として、鼻筋の通った顔立ち。

 杠葉咲。一年生のころの同級生だ。ほとんど会話らしい会話をしたこともないが、颯爽とした佳人であることは強く印象に残っていた。

 しかし今、彼女は苛立たしげに爪を噛み、眉根に深いしわを刻んで折角の美顔を歪めていた。

「こんなところで何してんだろうな? ヒマなのか?」

「僕たちが言えたことじゃないだろう」

 咲はしばらくブルーシートの覆いを射貫くように睨みつけていたが、やがて踵を返し、路地の曲がり角の向こうに消えてしまった。

「本当に何しに来たんだ? あいつ」

「さあ......?」

 彼女の消えた方角をぼうっと眺めていて、ハッとした。

 新しくシートの向こうから警察官の一団が出てきていた。そこにいたひとりの人物は......

「げっ、父さん」

 崇史は青い顔になって人垣に隠れた。

「柳司、僕はもう帰るぞ。ひとりでもだ。父が来た」

「そっか、俺ももういいぞ」

 あっさり柳司に同意され、肩透かしをくった気がした。柳司はもう、すべての興味を失ったとばかりに、あっさりと現場へ背を向けた。

「帰ろうぜ」

 その提案を断る理由は、崇史にはないのだった。


 誰もいない家。

 誰もいない寝室。

 宙に漂う塵芥が、窓から差し込む真夏日を浴びて、仄かな輝きを帯びていた。

 本来の持ち主を失った伽藍洞の部屋。そこに小さな人影があり、その人物は壁によりかかって座っていた。

 おかっぱの黒髪をした、和装の少女だ。人形のように整った顔に痛苦のしわを刻んでいる。彼女は身の丈にまったく不釣り合いな大刀を、竹刀袋に入れて抱きかかえていた。

「......まずいな」

 彼女はそう独り言ち、固く閉ざしていた目を開いた。重石を持ち上げるような緩慢さで、自分の右手を持ち上げると、その手のひらを差し込む陽光に向けてかざした。

 赤い血のような光が、手のひらを透って彼女の顔を照らした。かざした右手が、蜃気楼のように揺らぎ、崩れ、空気に溶け出してしまうように見えた。

 幻視だ。

 今は、まだ。けれど......。

「このままでは、もたぬ......」

 辛苦と焦燥の滲む独言を洩らした。

 そのとき、

「だから言ったじゃーん。あたしったら何度も忠告したよね? よねぇ?」

 独り言のはずだった言葉に、どこからか返答があった。茶化すような、実に浮薄な印象の声であった。

 少女は咄嗟に腰を浮かせ、抱えていた太刀を強く握った。その行動を嘲笑うように、声が響いた。

「やめなって、夜叉姫ちゃん。その剣を使ったが最後、どうなるかは君が一番よく知ってるでしょ?」

「また貴様か、道化」

 少女――夜叉姫の睨む先、開かれた扉の向こうで、薄闇から滲み出すように、声の主は現れた。

「道化じゃありませーん。あたしの名前はアマランサス。無論芸名ですが」

 それはセーラー服姿の少女だった。一見普通の格好に見えるが、ある一点だけが異様だった。彼女は顔に奇妙なマスクをかぶっていた。鳥のくちばしを模した赤いマスクだ。まるで中世ヨーロッパのペスト医師が被っていたもののような形をしている。

 仮面の少女は夜叉姫の座る寝室にずかずかと這入り込んで、舐めまわすような視線で――マスク越しなのにその視線を感じる――見つめてきた。

「やっぱり、もう融解しかかってるじゃん」

 夜叉姫は陽光に照らされていた右手を、咄嗟に袖に引いて隠した。

「......貴様には関係のない話だ」

「だーかーらー、ここで君に消滅されるのは困るんだってぇ。折角のお遊びがつまんなくなるでしょ?」

「知ったことではない」

「もー、相変わらずつれないなぁ」

 アマランサスと名乗った仮面の少女は、呆れたふうに大仰なしぐさで肩を竦めた。

「いい? 何度もいうけど、君はもともとこの世界の住人じゃないの。この世界にとって君は、泡沫の夢のようなもの。夢は、その夢を視る人がいない限り存在出来ないでしょ? だからさぁ、君がこの世界に留まるにはそれ相応の楔が――人間の夢巫子(ゆめみこ)が必要なわけ」

「貴様に言われずとも理解している」

「だったらどうして、新しい夢巫子を探さないわけ?」

 問いに対し、夜叉姫は視線で焼き尽くすが如く相手を睨みつけた。

「貴様には関係ない」

 しかし。

「当ててあげる。ビビってるんでしょ? 前の主をみすみす犬死にさせたから。ふはっ、くだらねー!」

 瞬間、激しい衝撃音とともに床が軋んだ。夜叉姫がやにわに腰を浮かせて、左足を踏み込んだためであった。彼女は踏み込みと同時、右手に握っていた大太刀の切っ先を、袋に入れたまま跳ね上げた。アマランサスの咽喉を狙った一撃だ。叩き潰すつもりだった。

「おっとアブナイ」

 しかしその一撃は、相手の右手に軽々と受け止められてしまった。

「あたしを殺すなら、それこそ夢巫子を見つけないとね。今のあんたじゃあ、とてもとても」

「貴様は、いったいどこまで知っている!?」

「だから前にも言ったじゃん?」

 突き出された太刀を振り払い、仮面の少女はくるりと回って、おどけた調子で一礼してみせた。

「あたしはアマランサス。悪夢の支配人にして、現実との仲介者。君たちのような魘(オニ)にまつわることで、あたしの知らないことなどないのです」

 夜叉姫は立ち上がり、今一度太刀を構えようとしたところで、ぐらりとよろけた。それ見たことかと、アマランサスが含み笑いを洩らした。

「つまらない意地張ってると、目的は遠のくばかりだよ、忠義の騎士さま?」

「......黙れッ!」

 大喝するも、この状況では虚勢にしかならない。アマランサスは呵々大笑し、闇の中に一歩二歩と退いていった。

「忠告してあげるよ」

 薄暗闇にぼんやりと浮かぶ深紅の鳥面が、冷笑交じりにいった。

「例の殺人鬼は、またすぐに「遊び」を始めるみたいだよ。これ以上、余計な犠牲者を出したくなければ、つまらないこだわりは捨てることだね」

 不吉な予言を残して、仮面姿は闇に溶けて消えた。

「............おのれ」

 夜叉姫はしばしその場に立ち尽くし、アマランサスの消えた闇を睨みつけていた。



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