03/悪意の巷へ

《七月十日・月曜日・先負》


 その日の夜、禮泉崇史の姿は駅前広場の雑踏にあった。

 本日、連続殺人三人目の被害者が、市内の中学校で発見された事態の影響で、一帯の学校法人は軒並み休校、あるいは早退の処置を取った。崇史の通う高校も例にもれず、早退指示を生徒に下した。にもかかわらず、どうして崇史が今、こんな場所にいるのかといえば、それはひとえに彼の妹のせいであった。

 妹の伊織が、まだ家に帰ってきていないのだ。彼女の通う中学校(事件の起きた学校とは異なる)も、午前授業のみで生徒を早退させたようなのだが、彼女は帰宅せず、あろうことか友人と遊びに出かけてしまった。崇史は、そんな妹を迎えに、ここまでわざわざ出張ってきたわけだ

「あの莫迦、受験生だろうが」

 苦言も口をついて出る。昨今の治安状況に鑑みれば、女子中学生に夜の街路をひとりで歩かせるわけにはいかない。兄の気苦労を知れといいたかった。

 駅前広場にある、ねじくれた大樹を模した仕掛け時計の足元に崇史は立った。この仕掛け時計は、その特徴的な外見から、待ち合わせの定番スポットになっている。彼の周囲にも、同様の意図を持った人々が垣をつくっていた。崇史はちらちらと時計盤を確認しつつ周囲を見渡した。

「遅い......」

 伊織とは先だってSNS上でやり取りし、この仕掛け時計のところで待ち合わせるように取り決めをした。ただし時間については「もうすぐ終わる」の一点張りでなかなか要領を得なかった。それにしても、崇史はかれこれ三十分はこの場に立ち尽くしている。そろそろ顔を見せてもいい頃だろう。

 崇史は電話をかけるか否か悩みながら、苛々と足踏みを続けていた。

「彼女」が現れたのは、そんな折のことだった。

 ふいに、空気がぐらりと揺れた気がした。立ち眩みだろうか? 眉間を押さえて目をつぶると、その揺れは一瞬で遠ざかった。

「あれぇ? 禮泉先輩じゃないですか、奇遇ですねー」

 そのとき、聞き覚えのある声が呼びかけてきた。見ると、忙しなく行き交う雑踏のなかに、黒いセーラー服姿が見えた。巻一高の制服だ。

 手を振りながら現れた少女の顔は、知った人のものだった。

「君は昨日の......」

「そうです。あなたの後輩、未散です」

 昨日、病院のバス停で出会った不思議な少女だ。相も変わらず、彼女の顔には張り付けたような笑みが浮かんでいる。やはり幽霊ではなかったようだ。

 未散はスキップで、崇史の傍らまで近寄ってきた。

「こんなところでどうしたんです? もしかして、人待ちとか?」

 仕掛け時計を見上げながら訊ねてきた。「妹を待っている」と答えると、未散はにっこりと笑みを深めながら、

「妹というのは、伊織ちゃんのことですか?」と言い当ててきた。

「知り合いだったのか?」

「ええ、同じ中学校でした」

 さらりと告げてから、未散はおもむろに崇史の手を取って言った。

「あたし、妹さんの居場所知ってますよ?」

 戻らぬ妹にさんざん焦らされていた崇史にとり、その一言は実に魅力的に感じられた。彼はほとんど反射的に、彼女の発した言葉に食いついた。

「何? 本当か?」

「ええ、ついさっき見たんです。お友達と遊び惚けていましたよ」

 崇史は咄嗟にSNSのチャット画面を確認した。まだ妹からの連絡はない。

「それ、どこだ?」

 このとき未散は、実に楽しそうに笑っていた。釣り糸に手ごたえを得た漁師のように、声を弾ませながら、彼女はこう提案した。

「案内しましょうか?」

 そしてこの時、崇史はそんな彼女の真意を、まったく訝しむことをしなかったのである。

 後にも先にも、この瞬間が崇史にとり、人生最大の不用心であった。

「......頼もうかな」


 数分後、崇史の姿は駅前を離れ、人通りの少ない路地裏にあった。

 案内された先は、いかにもアングラといった風情の場所だった。ここは駅前の大通りから一本外れた通りで、未散によれば、広く「裏町」と通称されているらしい。道沿いには風俗店と見紛うようなけばけばしいネオンの看板が軒を連ねている。店先には外国人の客引きがちらほらと顔を出し、時折こちらに声を投げてくる。生まれた時から住んでいたこの巻根市に、こんな場所があったのかと驚いた。

「なあ未散、訊きたいんだが、本当にこんなところで妹は遊んでいたのか?」

「さあ? 私はあくまでこっちのほうで見た、というだけですから。たんに近道として使っていただけかもしれません」

 未散は振り返りもせず言った。

「まあ嘘はつきませんから、信じて付いてきてください」

 自身たっぷりに言いきられ、今さら反駁の余地はなかった。

「しかし伊織め、もしもこんなところに出入りしていたとしたら、説教では済まんぞ」

 口が裂けても治安がいいとは言えそうにない街路だ。殺人事件が取り沙汰される昨今の治安状況を顧みれば、なおさらである。

「もうすぐ着きますよ。ほら、こっちです」

 言いながら、未散はさらに通りの奥深くへと進んでいった。ネオンさえも遠ざかり、人通りのない場所へ向かって、入り組んだ裏路地を右に左にと折れていく。

 さしもの崇史も不安になってきた。未散は本当に自分を妹の居場所まで導く気があるのか、と。

 それを問いただそうとしたその時、まるで図ったかのようなタイミングで、未散が告げた。

「この先です」

 二人は薄暗いT字路に差し掛かっていた。路地裏の奥深くで、店の明かりさえも遠い暗闇だった。そこで未散は突然立ち止まった。

「どうした? 最後まで案内してくれ」

「ええ、それは勿論ですが......」

 崇史はまだ暗闇に目が慣れておらず、振り返った未散の表情を正確に見極めることができなかった。けれどやはり、彼女は相変わらず張り付いたような笑みを浮かべているような気がした。

 そのとき、崇史のズボンのポケットの中で、スマートフォンが振動した。

「失礼、電話が」

「ええ、どうぞ出てあげてください」

 やけに嬉しそうな声で促された。訝しみつつスマホの画面を見ると、着信は「公衆電話」からとなっていた。今時珍しいことだ。

「もしもし、禮泉です」

『あっ、繋がった。お兄ちゃーん、もしもし、伊織だけどー』

 通話ボタンを押したとき、電話口に出たのは、今まさに探している妹その人だった。

「伊織? お前どこにいるんだ。探しているんだぞ!」

『今駅にいるよ。いや、途中でスマホの充電が切れちゃってさー、連絡つかなくなっちゃって、困った困った。だから公衆電話からかけてるわけ』

 ということは、やはりすれ違いになってしまったということか。どっと押し寄せてくる徒労感に、崇史は肩を落とした。

「そうか、だったらすぐ戻る。友達も一緒か」

『うん、一緒』

「いいか、そのまま友人と一緒にいろよ。今この街は危ないんだ」

『わかってるって。心配性なんだから』

 その軽々しい言い方が、少しばかりかちんときた。だから崇史は、敢えて声を低めて訊ねた。

「未散、お前たちはどこで遊んでいたんだ? まさかこのご時世に、人通りのない路地裏とかにわざわざ入っていったりしていないだろうな?」

 電話口の向こうの声はわずかに沈黙したあと、驚いたような、心外そうな声で答えた。

『まさか! 今日もずっと友達の家で遊んでたんだから。それくらいの分別はあるって』

 未散の言っていた話と違う。崇史は当惑して訊ねた。

「裏町に出入りしていたんじゃないのか?」

『は? 裏町?』

 返ってきたのは、呆れたような困惑の声だ。

『どこ、それ?』

「どこって............」

 崇史は思わず顔を上げて、「これはどういうことか」と一緒に来た未散を問いただそうとした。

 その直後、再び空気が揺れた。最近、やけにこの感覚が多く襲う。貧血なのだろうか? 崇史はふらりとよろけ、壁に手をついた。ただし一瞬で、その眩暈に似た「揺らぎ」は遠ざかって消えてしまう。

「お兄ちゃん? どうかした?」

「いや、なんでもない」

 言いながら、今度こそ改めて未散に事の次第を問い直そうとし、崇史は顔を上げて......。

「............未散?」

 当惑した。

 彼は電話を耳元にあてがったまま、呆然として立ち尽くした。

 未散の姿が消えていた。

「お兄ちゃん? ちょっとー、聞いてるー?」

「あ、ああ、ちょっと待ってくれ」

 慌てて周囲の薄闇を見渡すも、さっきまで隣を歩いていた人間の姿が何故か見当たらない。崇史は受話器に言った。

「知らないならいいんだ。僕もすぐに戻るから」

「うん、わかった。じゃああたしは待ち合わせ場所にいるから。早く戻ってきてよねー」

 急いで通話を切り上げて、改めて未散の姿を探すことにした。

 いない。ここまで確かに、一緒に歩いてきたはずなのに。

 崇史の周囲には、文明の灯の届かない濃密な暗闇だけが、内部に不穏な気配を孕ませて、満ち満ちている。

「未散? どこにいった?」

 問いかけた。返事はない。声は暗闇に吸い込まれるのみだ。

 これではまるで、最初から、崇史の傍には誰もいなかったかのようではないか。

 ゾっと鳥肌が立った。真夏の夜にも関わらず、怖気が崇史の全身を震わせた。

――幽霊っていると思うか?

 昨夜、妹とした何気ない雑談が否応なく思い出された。そして昨日の昼、バスに乗った直後、未散の姿が忽然と消えたあの瞬間の記憶が、頭の中で繰り返し再生された。

――僕はいったい、今、何に巻き込まれているんだ?

 焦りが、彼の全身に冷たい汗を湧き出させた。

「未散? 返事をしろ!」

 そのときであった。

 ぱき、ぱき......と、鋭い音が崇史の耳に届いた。鬱蒼とした森の中で、小枝を手折るような音だ。音の発信源は、どうやら十字路の曲がり角の向こうらしい。同時にそちらから人の気配を感じた。

「......未散か?」

 その問いかけは、むしろ願望であったのやもしれぬ。彼女であってほしい、という願いだ。崇史はごくりと唾を呑み込んで、音の方向に一歩踏み出した。どうしようもなく、嫌な予感が背中にまとわりついてきた。

 何を莫迦な、とその予感を振り払った。勇気を奮って、崇史は少しずつ曲がり角の死角に近づいて行った。

 そしてそのとき、気が付いた。

 むっと鼻を衝く、鉄の臭いに。

 周囲の闇よりも濃密なその臭いは、音のほうから漂っていると思われた。崇史の本能が警鐘を鳴らす。危険だ、と。根拠はない。それは肚の底から、泉のように湧き上がってくる感情だった。

――危険だ、危険だ、危険だ。

 けれど、これもひとつの愚かさの形なのだろうか。崇史の理性は、その本能の警鐘をねじ伏せてしまった。ここまで一緒に来た責任があるのだから、未散を探してきちんと連れて帰らなければならない、と。

「............ミ、チル?」

 そうして歩み寄った先、街路の曲がり角に見た光景は、崇史の理性を一瞬にして溶解させた。

「........................」

 ビルとビルの狭間に、月光が糸のように垂れていた。その糸が、都市の谷の底にわだかまる暗黒を払い、秘された儀式をあらわにした。

 そう、それは儀式だった。

 冒涜的で、赤黒く血濡れ、死臭を放つ儀式。

 いや、あるいは遊興かもしれぬ。子供じみた、残虐な遊興。

 いずれにせよ、崇史はこれを目にするべきではなかった。世には知らぬほうがよいものというのが、厳然とあるのだから。

「..................ひっ」

 月影の中に浮かび上がっているのは、ふたりぶんの人影であった。ひとりはこちらに背中を向けていて、細かな外見はあまりはっきりとは見えない。どうやら灰色の襤褸をまとっているらしい。シルエットの形からすると、男性であろうか。

 その人物は、彼よりも一回り大きな男性を、背中から抱きしめているようだった。一見すれば同性愛者の睦みあいにも見えたが、しかし事態はそんな安穏としたものではないようだった。

 崇史は、背中から抱きしめられている男性と目が合った。大きく見開かれた目だった。顔は恐怖の表情のまま固まっている。歪んだ表情筋のつくるしわが、彫刻刀で彫り込まれたかのように深々と刻まれている。そしてその瞳は、夜闇よりも暗く、虚ろだった。

 そう、まるで詠子のように。ベッドに横たわる彼女の瞳のように......。

――死んでいるかのように。

 だがここで、崇史ははたと気づいた。

――おかしいぞ。

 それははじめ、小さな違和感だった。月に照らされた二人の男性。この情景は、どこかおかしい。何かが、変だ。あり得ない。

 自分が何にこれほどの違和感を覚えているのか、一瞬わからなかった。けれど崇史は気づいてしまった。何も気づかず、何も知ろうとせず、この場を立ち去ればよかったものを。

――そうだ、ありえないんだ。

――だって僕は、あの男性を背中側から見ているんだぞ?

――なのにどうして、彼と「目を合わせる」なんてことができるというんだ!?

 ぱき、ぱき、ぱき............。

 枝を折るような音が響く。抱きしめられた男性の首が回っていく。ぱき、ぱき、と鋭い音を響かせて。絶対にありえない角度まで、ぐるりと回っていく。

 見ると二人の足元には、黒々と水たまりのようなものができていた。たまった液体は、どうやら男性の首から迸り、溢れ出たものであるらしかった。その液体の正体がなんであるか、周囲に漂う猛烈な鉄臭に鑑みれば、自明のことであった。

 崇史は一歩後ずさった。恐怖が腹の底から押し寄せて、全身を凍えさせる。

 そう、彼は理解してしまったのだ。

 自分が今、いったい何を目撃しているのかを。

 ぱき、ぱき、ぱき............。

 男性の首が三百六十度、完全に回りきった。直後、襤褸を纏った人影が、右腕を男の顎の下に突き立てた。ズブリ、と彼の手首から先が、男の首の肉に沈んだ。彼はしばらく右手をまさぐるように動かしたのち、中のものを掴んで一気に引っ張った。

 男の頭が、壊れた球体人形のようにあっさりと引き抜かれてしまった。

 信じられぬほど大量の血液が、男の首から噴き出した。人間の体は六割が水分だというが、これを見ては納得するしかない。

 それと同時に、血臭が波濤のように押し寄せてきた。錆びた鉄によく似た、むせかえるような臭いだ。

「く、首を......」

 絶句するより他なかった。今、襤褸の人影の右手には、バスケットボールほどの大きさの球体が握られていた。その球体の正体は、つい先刻まであの男性の首の上に乗っていた、人間の頭部そのものなのだから。

 頭部を失った男は、ぐらりとよろめき、支えるものもないままに、前のめりにどうと倒れた。コンクリの地面に、血の華が大輪を咲かせた。

 崇史の思考は、今や完全に麻痺してしまった。はじめは妹を探していたはずが、いつの間にか未散を探すはめになり、そして今どういうわけか、彼は恐るべき殺人の現場を目撃している。頭がどうにかなりそうだ。

 ただ......、もしかして......。

 千々に乱れてカオス化した彼の思考の只中に、突然蜘蛛の糸のように、一本の発想が降りてきた。

――未散はこの光景を見せるために、僕を騙して、ここに連れてきたのでは?

 その発想を論理的に検証する時間はなかった。

ついに前方の人影が動きを見せたのだ。

「く、くっ......くくくっ」

 嘲りの笑みを不気味な音楽のように響かせながら、彼の頭がゆっくりと崇史の方を向いた。

「好奇心は猫を殺す。素直に引き返せばよかったのになぁ、おい」

 男の声だった。しかも若い。

 襤褸の人物が崇史を見据えた。その顔を見て、崇史は仰天した。

「何だ、何者だ、貴様......」

「くくっ、くくくっ、くははは」

 笑う彼の表情は、しかしぴくりとも動かない。それも当然だ。何故なら彼の顔は、冷たい黒鉄の輝きを放つ仮面に覆われているのだから。仮面は鬼を模しているらしい。口のような裂け目が冷笑の形を刻み、黄金の瞳がギラギラと光を放っている。

「俺が何者かって? この状況で面白ぇことを訊くじゃねえか」

 一歩、踏み出してくる彼の体は、はじめ見た通り灰色の襤褸を纏っていた。だが、その下――ズタズタにほつれ、破れた布地の下から覗くものは、明らかに金属の輝きだった。

 そう、その者は全身に鎧をまとっていたのだ。細身の、闇色をした甲冑を。

 嘲笑を含めた声で、彼は言った。

「俺は魘(オニ)だ。人狩りの、地獄の使いさ」

 彼の両手を包む手甲は、夥しい血糊に濡れ光っていた。その指先には、獣のように鋭利な爪が輝いている。

 崇史は震えて後退りしながら、彼が右手に握るものを見た。恐怖の形をした貌が凍り付いて、崇史の方を見つめていた。

「何という......おぞましい............」

 もつれる舌で思わず口にしてしまった。そんなことを口にする理性が残っていることが奇跡的だった。

 ゆらりゆらりと近寄ってくる鎧の――自称「オニ」の姿は、この世のものとは思えぬ威圧感を放ち、月光の下、おどろおどろしくぬめるような晦冥を引き連れている。まるで地獄草紙の具現だ。地獄の獄卒が、伝承さながらに追い迫ってくるようだ。

 するとオニはにわかに足を止めた。そして右手に握っていた男の首を一瞥し、彼はなんと、それをこちらに投げてよこしてきた。

 咄嗟に飛びのこうとして、けれど体は言うことを聞かなかった。よろけて倒れそうになり、壁に手をついて体を支える。そんな彼の足元で、重たい物質が湿った音を立てて落下した。

「すげぇだろ?」

 オニは嗤っている。仮面の口が笑みの形をとっているのだから、当然だ。けれど、彼の内心も、きっと高々と哄笑しているに違いない。否応なくそう想像させるような、はずむ声音だった。

 男の首がゴロリと転がって、崇史のほうを向いた。うつろな視線が、一切の光を宿さぬ瞳が、彼を見つめた。

 崇史は震えた。心肝より震えた。

 消えた未散のことなど、今や考える余裕もなかった。

 震えるままに、彼は問うた。

「どうして......こんな、ことを?」

「はァ? どうして?」

 愚問をかけられた教師のように、上ずった声で疑問をおうむ返しした。

 そしてオニは、その満面より喜悦の情を溢れ滴らせながら、己の行いの動機を告白した。

「楽しいからにきまってんだろ。遊びだよ、遊び」

 そう、当然だろうといわんばかりに言い放った。

 崇史は、震えた。

「もしや、今まで、この街で起こっていた殺人事件は、貴様の......」

「ああ、そうだぜ。面白かったろ。俺にしかできない芸術ってヤツを創っていたのさ。あー、つってもお前如きが現場の詳細を知ってるわけねーんだよなぁ」

 残念そうに彼は言った。崇史がその地獄絵図を、彼の「芸術」を知りうる立場になかったことを、嘆くように。さながら、鑑賞者に作品の感想を求める芸術家のように。

 禮泉崇史は、震えた。

 体の震えが止まらなかった。その震えは、自分の身体の奥の奥、肉体と精神を隔てる殻の、その内側よりやってきているらしかった。彼の精神の内側から、ある強烈な感情が、今まさに溢れ出る波濤に打たれるように、激しく揺れ動き、振動し、弾き出ようとしていた。だから彼は震えるのだ。

 ただ意外なことに、その感情というのは、恐怖や驚きではないようなのだ。先程感じた恐れも、今は少しくなりを潜めている。

 では彼の体を震わせる、その根本にある感情とは何なのだろうか。

 彼は顔を伏せた。

 視線の先に、変わり果てた人間の表情が見えた。きっと生前は、崇史の妹や、友人たちと同じように、怒り、悲しみ、喜び、愛し愛されたであろう誰かの、その残骸が。「楽しいから」などという理由で、蹂躙された者の嘆きの叫びが、視えた気がした。

――これは......、

「............理不尽だ」

「あん?」

 瞬間、弾かれたように、彼は顔を上げた。指先を刃のように、眼前の「オニ」に向かって突き付けた。

 そして彼は、迸る情動のままに叫んだ。

「貴様は、人倫に悖るッ!!!!!!!」

 彼は、怒っていた。

 禮泉崇史は怒りに震えていたのだ。

「..................は?」

 唖然とする鎧姿。「オニ」は奇矯なものを見るように面食らっていた。

 相手の反応など知ったことではない。崇史は感情の昂るままに言い放った。

「僕はこの哀れな犠牲者を知らない。面識もない。貴様にとってこの者が、いったいどのような存在なのかを知る由はない。けれど、けれど......『楽しいから』だと......。それが人ひとりを殺傷せしめる理由だと? 看過しがたい......まったくもって看過しがたい!」

「てめぇ、何言ってやがる」

「如何なる理由であれ、殺人行為の動機に対し納得いたす気は毛頭ないが、たとえばこれが怨恨の行き着く先であれば、理解を示そう。金目であれば、軽蔑をしよう。過失であれば同情しよう。しかし......『遊び』だと......。この者は、この誰かは、たかだか貴様の道楽のためだけに、かような無残な姿にさせられたというのか。ならばそこには、この者の運命に――因果には、如何なる整合性も存在し得ないじゃないか!」

 マグマの如き熱が、丹田から溢れ、血潮に乗って全身を駆け巡っていた。

 自分でも自分の抑えが効かなかった。こんなことを叫んでいる場合ではないはず。本当なら今すぐ踵を返して、逃走すべき場面のはず。

 けれど止まらないのだ。肚の底の怒りが、止まらないのだ。

 彼は怒りの命ずるままに、突き付けていた指を握りこぶしに変えて叫んだ。

「断じて許せん! この殺人鬼めが!」

 大喝が路地裏の闇に轟いた。

「..................」

 血濡れの「オニ」は、呆然と固まってしまった。放心した様子のまま、彼は崇史に対して言った。

「お前、頭おかしいんじゃねえの?」

 誰よりも眼前の殺人鬼にだけは言われたくない台詞だった。

 崇史は両こぶしを顔の前に構えた。禮泉家は武門の血を継ぐ家系である。相応の護身術は身につけている。しかし彼の脳裏をよぎるのは、先の一瞬に垣間見えた光景。この鎧姿の奇人は、人の首を素手のままねじ切っていた。いったいどれほどの膂力を要する荒業なのだろうか。どんなからくりが仕込まれているのか見当もつかぬが、このまま崇史が躍りかかって事態が好転する見込みがあるとは思えない。

――けれど、どうにかして捕らえてやりたい。どうにかして......。

 考えを巡らせているうちに、放心していた敵方も正気を取り戻したらしい。彼はくつくつとくぐもった笑い声をあげた。

「おい、聞いたかよ『主』さん。面白ぇヤツが目の前にいるぜ。どうする?」

――......?? 誰と話している?

 未散が蒸発してしまった以上、ここには崇史のほかに人はいない。殺人鬼はこめかみに手のひらを当て、まるで自分の頭の内側に呼びかけるように、独り言ちていた。

「えぇ、こいつもか? 勿体ねえなぁ、見込みがありそうなのによぉ」

 やがて彼は崇史のほうに視線を戻した。その瞳はすでに、獲物の血潮を欲して舌なめずりする、獰猛な獣の輝きを放っていた。

「目撃者は消せだってさ。運がなかったな、お前」

 その言葉が最後通牒であることに気づく暇さえ、崇史にはなかった。

 殺人鬼が右足を踏み込んだ。瞬間、大地が震えた。足の甲掛の下で、コンクリがひび割れ、欠片が爆散した。瞬きする間もないうちに、闇色の鎧姿は崇史の一歩先の距離に接近していた。

 人間の動きではなかった。

「死ね」

 鋭利な爪が振り上げられていた。崇史は、それを視界の端で捉えるだけで精一杯であった。人間を一打のもとに切り裂き得る狂爪が、崇史の側頭へ向けて横薙ぎに襲いかかった。

 避けられるはずもない。何が何だかまるでわからぬうちに、彼はその一生を終える。そうなるはずであった。

 しかし、ここで異変があった。

「伏せろ! 少年!」

 弓弦を引き放つような、鋭く高い声が飛んできた。硬直していた崇史が反射的に腰を沈めた瞬間、金属同士を打ち鳴らすような甲高い衝撃音が響いて、眼前にいた「オニ」が斜め後方に吹き飛ばされた。

 理解の及ばぬことが、今目の前で起きた。

 崇史は放心して、その場に立ち尽くすのみであった。だが彼は、恐れや驚きで放心したのではない。

 彼は眼前の光景に魅入られた。その、美しさに。

「君は......」

 崇史の目の前に、少女がひとり、立っていた。信じがたいが、どうも空から降ってきたらしい。和装の少女だ。夜闇に滲むような黒色の小袖を、梅花の刺繍が彩っている。わずかに乱れたおかっぱの黒髪から覗く横顔は、人形のように冷ややかで、凛とした面立ちだ。

 だが崇史の視線は、何よりも彼女の背中から生えているものに吸い寄せられた。彼女の背には、巨大な翼が生えていた。女の濡れ髪のように光り輝く、漆黒の翼だ。その黒翼は、怪談に語られる天狗のそれのように、圧倒的な存在感を放ち、彼の目前ではためいた。

 彼女の右手には、その小柄な体に不釣り合いな巨大な太刀が握られていた。数瞬前、彼女は崇史の頭上より飛来して「オニ」との間に割って入り、鞘付きのその太刀でもってオニの頭部を一撃したのだ。

 まったく信じがたいことが、崇史の目の前で立て続けに起こっている。

「少年、私が視えるか!」

「えっ、あっ、ああ」

 問いの意味を理解せぬまま、彼はぶんぶんと首を縦に振った。

 気づくと、有翼の少女は崇史に向かって歩み寄り、空いている左手で彼の手を取っていた。

「ならばよし。今の私ではこれ以上の交戦は無理だ。逃げるぞ!」

 君はいったい何者か? どうしてここにいる? どうして僕を助ける?

 ......などと様々な疑問が脳裏を駆け巡ったが、真っ先に口をついて出たのは反駁の言葉だった。

「ま、待て! あんな奴を放っておけない。捕まえなくては!」

 すると少女は一度驚きに目を見張ったあと、険しい顔で鋭く叱咤した。

「聞き分けよ! あ奴はただの人間ではない。人の身では抗えんのだ!」

 言って、彼女は強引に、両手で崇史の胴を抱え込んだ。そうされたことでようやく、崇史の頭にもわずかな冷静さが戻った。

「逃げるといって、どうするつもりだ?」

 すると少女は力強く宣言した。

「飛ぶ!」

 その信じがたい言葉の直後、下腹がぐんと上に持ち上がる感覚があった。気づいたとき、彼は自分の足が地面から遠く離れた場所まで浮き上がっていることに気が付いた。

「本当に、と、飛んで!?」

 崇史は少女の両手に抱え上げられ、空に浮いていたのだ。

「長くは無理だ。あのビルに上がるぞ」

 少女は翼をはためかせつつ、ビルの側壁にある排気口などの凹凸を踏み台にして、あれよあれよという間に屋上まで辿り着いていた。

 しかし着地はそうそうスムーズにはいかなかった。崇史を抱え込んだ少女の足が屋上に接したとき、彼女は痛苦を忍ばせる呻きとともに崩れ落ち、崇史もその場に投げ出されて転がった。

「うお!」

「くっ......すまぬ」

 咄嗟に受け身を取ったために大事なかった。むしろ問題なのは、崇史を助けた少女のほうであった。

「ぐむ......、ぐぅ、おのれ............」

 彼女は眉間にしわを寄せて歯を剥き出し、脇腹を押さえてうずくまった。

「どうした!」

 駆け寄って彼女の状態を確認しようとし、気づいた。腹部に当てられた彼女の手は、そこから滲み出す血で黒々としていたのだ。

「怪我をしたのか!?」

「なに、古傷が開いただけのことぞ。この程度、どうということもない......」

 言に反して彼女の表情は苦痛に歪んでいた。

「掴まるがいい。もう一度飛ぶ。もう一度......」

「遅えっつーの」

 背後から声。咄嗟に振り返ろうとして、しかしすでに手遅れだった。

 灰色の襤褸が、青白い月光を背にして踊るのが見えた。鎧姿の殺人鬼は空を舞っていた。屋上を囲っていたフェンスを飛び越えてきた彼は、着地するや否や左足を振り上げた。鞭のようにしなった足は、闇中に弧を描いて飛び、崇史の隣で苦痛に喘いでいた少女の背中をしたたかに打擲した。

 隣に立つ崇史にまではっきりと聞こえるほど、大きく不穏な衝撃音とともに、少女の体が空を舞った。浮き上がり、弾き飛ばされた彼女は、二度三度と地面に打ち付けられ、転がり、屋上を滑りながら反対側のフェンスに激突した。

「がっ......はっ」

 少女は衝撃に目をむき、その後ぐったりと動かなくなった。

 瞬間、黒色の翼が仄かに発光し、氷の彫像が溶け出すように消えてなくなった。

「そんな............」

 あまりにも一瞬の出来事に、崇史は愕然とするほかない。このビルは五階ぶん以上の高さがあったはずだ。

「どうやってここに」

 殺人鬼は得意げに笑った。

「なあに簡単なこと、よじ登ってきたのさ」

 彼は黒鉄の足甲をカツカツと鳴らしながら、崇史を素通りして少女の元へ歩み寄っていった。

「二日ぶりか? 『はぐれ』の分際で、こないだはさんざん邪魔しくさりやがって」

 唾棄する「オニ」。語る内容から察するに、二人の間には何らかの因縁があるらしい。

二日前といえば、連続殺人三人目の被害者が出た日の前日だ。それが無関係であるとは思えない。

「傷が治ってなかったみたいだな? こないだはズイブン深く、その腹ァ抉ってやったもんなぁ?」

 殺人鬼の罵倒に対し、少女は何も返さない。すでに気を失っているらしかった。

「チッ、つまんねーの」

 そのことを察したのか、殺人鬼は大きく舌打ちしていた。

 この二人はいったい何者なのか。間違いなく、ただの人間ではなかろう。今は消えてしまった、あの少女の黒い翼を思い起こした。彼女もまた、眼前のオニと同様に、常人とは異なる。魑魅魍魎の類なのかもしれない。

 明らかなのは、眼前に居るふたりの者は互いに敵対しているということだ。そしてふたりのうち、崇史に味方してくれるであろう人物が、今まさに追いつめられているということ。

 彼女を助けられるのは、自分しかいない。

 使命感に駆られた崇史だが、ここまでに見たあの「オニ」とやらの、尋常ならざる身体能力とそれに付随する殺意を思い起こせば、その行動がどういう結果を招くかは自明であった。

 崇史はこぶしを握った。

 一度、ちらりと背後を振り返った。そこには屋内に続く塔屋がある。けれどおそらく、その扉は施錠されているだろう。

――いずれにせよ、ここからは逃げられない。

 当然のことだ。五階ぶんの高さをものの数秒で駆けあがってくる相手に対し、少女のあの翼の助けなしで、どうやって逃げられるというのだろう。

――ああ、僕の運命はすでに詰んでいるのか。

 崇史がそんな残虐な真理に辿り着くまで、さほど時間はかからなかった。

 殺人鬼は彼を殺そうとしている。崇史にはここから逃げ出す手段がない。完全に手遅れだ。

 そんな現実を理解しても、崇史の心に不思議と恐怖感はなかった。崇史は殺人鬼と、和装の少女の方を向いた。彼の想像力が貧困なせいか、「殺される」とか「死ぬ」だとかいう事象に実感がわかなかった。

 だからだろうか、彼の心中に次のような欲がぐらぐらと沸き起こってきた。

――どうせ死ぬなら、どうせ理不尽に殺されるなら......一矢報いて死んでやる。

――こんな理不尽に、こうべを垂れてなるものか!

「すでにお前は負けたんだ。負け犬が出しゃばってんじゃねえぞ」

地に沈んだ少女を面罵しながら、オニは彼女の傍に立った。確実に、あの鋭い爪の一振りで彼女を殺傷せしめることができる距離だった。

「さっさと死んどけ。野良犬が」

「殺人鬼!」

 やるなら今だ。崇史は絶叫した。肚の内にあったエネルギーを爆発させ、彼は駆け出した。地を蹴り、彼我の距離を駆け抜けて、決して敵わぬ敵に突進した。

 筋肉を弓弦のように引き放って、彼は右の拳を相手の顔面に打ち付けた。

 相手がただの人間であれば、この一撃は相当な痛打となったであろう。けれど再々わかっていた通り、敵は常人ではなかった。

「あ?」

 振り向きざま、オニは裏拳で勢いよく崇史の拳を払った。

 それで、右腕が砕けた。

「ぐぎっ」

 右腕の前腕部が、本来手首の関節がある箇所よりも手前で、九十度折れ曲がった。皮と肉を裂いて、白い骨が突き出た。痛くはなかった、今はまだ。崇史としては、ただ強烈な衝撃を感じ、腕の内側でミシリと軽快な音を聞いただけだ。

 これまで剣道部の部員として、あるいは武門の末裔として鍛えてきた彼の腕は、これで使い物にならなくなった。

 しかし彼がそれを嘆く暇はなかった。続けて瞬きする間もなく叩きつけられたオニの左手が、彼の鳩尾を打ち、背中まで貫いて風穴を開けたためだ。

 巨(おお)きな異物感が腹に満ちた。その瞬間、おそらく彼の体に張り巡らされた神経の網は、溢れんばかりの痛みを電気信号として脳に伝えていたのだろうが、肝心の彼の脳に、その信号の大瀑布を受け止めるキャパシティがなかった。だからはじめは、それが「痛み」であるということさえ、わからなかった。

「あっ、やっべ。反射的に殺っちまった。これじゃ楽しめねーじゃん」

 腕が引き抜かれたと同時、崇史の内側から、何か大量の重さが引きずり出されていったように感じた。けれどそれが何なのかを理解する間もなく、崇史は頭からどうと倒れた。ここに至ってようやく、脳が押し寄せる感覚の意味を理解し始めていた。

 そしてそれは、あまりにも壮絶に過ぎた。

 痛い。

 痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!

 痛いという次元ではない。腹だけでなく、全身が無数の炎の杭に串刺しにされているようだった。燃える刃が、崇史の全身を内側から貫き、ぐちゃぐちゃにかき混ぜているのだ。

 けれど、これは幸いというべきか、痛みはほとんど一瞬で過ぎ去り、彼の血と意識とともに急速に遠ざかっていった。

 あれだけ体内で昂っていた熱が、今はぞっとするほどの冷たさに変わっていた。

 徐々に虚ろになりゆく思考のなか、崇史は自身に迫る死の気配を明確に察した。

――結局、何が何だかわからないままに死ぬのだな。

 笑ってしまいそうになる。

 よくわからないものに巻き込まれ、よくわからないまま死ぬのだ。

 徹頭徹尾、自分の手で事態を動かすことはなかった。

――理不尽だ。

――けれど、どうしようもない。

 せめて自分の生命を蹂躙したこの因果が、何に因るものかくらいは知りたいものだと思ったが、答える声などない。

 崇史の意識は暗闇へと落ちていった。


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