04/死の海

《七月十日・月曜日・先負》


 ざわり、ざわり。

 ざわり、ざわり......と、体の中で蟲が這いまわるように、音がした。はじめはささいな物音のようだった。それがやがて、二倍三倍と膨れ上がり、やがてあふれんばかりの大音響となって、崇史の内側を満たした。

 ざわり、ざわり。

 ざわり、ざわり......。

 ノイズのようなその音が、ついに崇史の内側から零れだし、雪崩を打って彼を呑み込んだ。そうなってはじめて、彼は気づいた。

 これは潮騒だ。

 ただし、この世のものではない。

 たぶんここは、あの世とこの世の境なのだ。

「三途の川」に表されるように、生者の世界と死者の世界とを隔てるものは、やはり「水」なのだろうか?

 禮泉崇史は、無辺の海を漂っていた。

 海は宇宙と同じだ。人間の手の届く領域ではない。その深い暗黒は未踏の地であり、ほとんど無限に続く。果てが無い。

――自分は死んだのだろうか。

――だとすれば、これからどうなるのだろうか。

 滞っていく思索のなか、ぼんやりとそんな疑問を思い浮かべた。崇史の思考は、錆びた歯車のようになって回らなかった。

 体はすでにない。海に溶けて消えてしまった。「崇史」という一個の存在は、肉体という殻を取り去られ、剥き出しの卵の黄身のようになって、いつとも知れぬ終焉を待っていた。

 時間の概念は、おそらくここには存在しない。けれど崇史の記憶は、まだ生前の時間感覚を引きずっていて、それが「退屈」という感情を生んだ。でもここにはそれを紛らわすものがない。

 だから彼の意識は、外ではなく、自身の内面深くへと穿孔していった。

 目を開けると、崇史は学校の教室に立っていた。

 彼は自分の机の前に立って、愕然としていた。彼の机の上には一冊の本があった。祖父から貰った本で、己の命と同じくらい大切な宝物だった。それが、見る影もないほど汚損され、無残な姿でそこに放置されていた。

 絶句する崇史を、遠巻きに見てせせら笑う集団があった。彼らは崇史がこれを大切にしていると知っていて、だからこそ破壊した。

 幼稚ないたずらだった。ただし、幼稚なのは当然である。みな実際に幼いのだから。

 このとき、禮泉崇史は小学生だった。

 小学生の崇史は、そんな幼稚な攻撃にも抗するすべを持たず、ただ他人の悪意に打ちのめされるのみだった。

――いやだ!

――この思い出は見たくない。ここには帰りたくない!

 崇史は絶叫した。その瞬間、口の中に大量の海水がなだれ込んできて、溺れた。そうだ、ここは海だったのだ。けれど体はすでに失ったはずでは?

 ともかく、彼はもがき苦しんだ。するとそんな彼に、救いの手を伸ばす者がいた。彼は藁にも縋る思いで、その手を取った。

「キミはつよい人だわ」

 黒い、艶やかな髪をした少女が言った。

「悪いものを悪いって、いやなものをいやだって言えるのは、つよい証拠よ。よわい人はつよい人がきらいなの。だからいじめられるのよ」

 そう言った彼女は、崇史の知る限り、世界で一番強い人間だった。

「でも、だまってやられているだけのボクは、やっぱり弱虫だとおもう」

 膝を抱えて崇史が言うと、少女はにっかり笑って、拳を天に突きあげた。

「だったら、わたしといっしょに弱虫を卒業しましょう!」

 彼女は崇史の背を叩いた。

「だまっていちゃダメっていうのは、そのとおりね。沈黙は『ハイボクシュギ』なのだわ!」

 彼女の言い方は難しくて、崇史にはよくわからなかったけれど、その時の彼の目には、自信満々の少女の姿が百万の英雄よりも輝いて見えた。

 ......けれど今、あの時の輝きは失われてしまった。

 奪われてしまった。

 あの時の少女は......景永詠子は、病院のベッドの上で、死んだ瞳で、心を腐らせているような器じゃないのに!

 直後、崇史の足を何者かが掴んだ。あまりにも強大な力だった。崇史の足は容易にひねりつぶされた。そんな痛みがあった。体はすでにないのだから、幻肢痛かもしれない。はっきりしているのは、とにかくすさまじい力が、彼を捕らえたということだ。

 崇史は海の底に引きずり込まれた。

 宇宙よりも深く、暗く、底のない闇に向かって、沈んでいく。

 暴れた。けれど抗えない。その存在は人知を超えていた。

 どす黒い、節くれだった指をしていた。ねじくれた古木のようだ。その手はミシミシと音を立て、軋みを上げ、けれど万力のように崇史を捕らえて離さなかった。その腕は、果てなき海中の暗黒から伸びていた。

 崇史は恐怖した。心胆が凍えた。その腕が連れ去ろうとする先に、本当の「虚無」が、ぽっかりと黒い口を開けて、彼を待っている気がしたのだ。そこに到っては、崇史は二度と陽の光を拝めぬと、確信があった。

 そうだ。

 この先に「死」があるのだ。

 それに気が付いた瞬間、崇史のなかで、なにか大きなタガが外れたような気がした。

 思い出されるのは、ベッドに横たわる少女――景永詠子の姿だ。

「沈黙はハイボクシュギ」と、そう語った彼女は、今や一言自分の意思を述べることもできぬまま、ただ漫然と齢を重ねている。死んだ瞳のままで。

 そのことを想起した瞬間、崇史の中からマグマが噴き上げた。マグマは海水に触れ、蒸気を上げ、爆発した。暴れ狂う熱が崇史の思索を焼き、理屈を取り払い、心の根幹に根付いた激情をあらわにした。

 沈黙は敗北主義だ。

 理不尽を前にこうべを垂れるなどヘドが出る。

 崇史は自身の足を掴む巨大な手を睨みつけた。闇から伸びるその腕は、まさに死神そのものであって、崇史の生命を理不尽にも簒奪せんとする元凶に相違なかった。

 崇史は歯を剥き出して唸った。

 彼の思考は、今やマントルのように熱され、炎を噴き上げていた。

――理不尽めが、僕を連れ去るのか。

――「死」の先に僕を奪い去ろうというのか!

 彼は叫んだ。

――断じて許さん! 僕はまだ、まだまだまだまだ......まったく生き足りていないんだ!

 崇史は無辺の海の只中で、魂を絞り出すように叫んだ。彼の中に、ようやく死の実感が芽生えていた。そしてそれは、禮泉崇史という青年にとり、まったく受け入れがたいものだった。

 死者は沈黙するしかない。あらゆる理不尽を看過せざるを得ない。そんなのは御免だ。

 だから、誰でもいい、僕をここから引き揚げてくれ。この底なしの海から連れ出してくれ。崇史はそう叫んだ。

 するとその叫びに対し、手を差し出す者がいた。

 その者は言った。

 この手を取れば、貴公は死よりもつらい辛苦を味わうことになるかもしれない。この底なしの海が懐かしく思われるほど過酷な運命が、約束されるだろう。その覚悟があるなら、この手を取るがいい、と。

 その言葉を聞き、崇史は笑ってしまいたい心地になった。不穏な運命を告げるその者の手は、彼の足を掴む黒い腕に比して、あまりにも人の温もりに満ち満ちていたから。

「生即是苦」の覚悟はある。崇史は有無を言わせずその手を取った。

 さあ、連れて行ってくれ。そこがどんな地獄だろうと、踏破してみせよう。

 すると彼の叫びに、答える声があった。

「貴公は、哀しい男だ......」

 沈鬱な声がそう言って、直後、鋭い光が崇史を包み込んだ。

 崇史の意識が、光に呑まれた。


 光の中、禮泉崇史は目を開いた。

 そこは白い世界だった。そこに空はない。大地もない。ただただ見果てぬ先まで白に染まった、何もない世界だった。

「ここは......」

 当惑する崇史に対し、答える声があった。

「貴公の心の最奥。魂の深淵ぞ。いわば......原初の夢のようなものよ」

 凛とした女の声がした。いつの間にか、当惑する崇史の目と鼻の先に、あの和装の少女が立っていた。

 濡れたような、艶やかな黒髪。白磁のような肌。あまりに完成された美しさに、崇史はしばし見惚れた。この世のものとは思えなかった。

 彼女の瞳はまっすぐ、崇史を見つめている。その瞳を覗き込んだとき、崇史は不思議な懐かしさを覚えた。

――この人は、誰かに似ている。

――けれどいったい、誰に......?

「君は......」

「自己紹介すらまだであったな。私は夜叉姫という」

 彼女の声は鈴の音のようでいて、しかし同時に、太鼓のように遠くまで響く、朗々としたものだった。

「夜叉姫......」

 不思議な名だ。古風ではあるが、人につける名ではないように思われた。

 しかし眼前の少女にはよく似合う。彼女の身にまとう雰囲気が、どこか人間離れしているからであろう。冷徹な刃のようでいて、しかし煮えたぎるような情熱をも感じさせる、不思議なオーラがある。彼女はきっと、どれだけの雑踏に紛れても、そこに溶け込んでしまうことはないだろう。そんな独特の存在感があるのだ。

 夜叉姫の内に感ずる謎の懐かしさはひとまず脇に置いて、崇史が自己紹介を返そうとすると、先んじて「禮泉崇史どの、であるな?」とたずねられた。

「そうだが、どうして僕の名を......?」

「少しばかり、貴公の心に触れさせてもらった」

 申し訳なさそうに彼女は言った。その言葉の意図するところを量りかねていると、少女は突然、こうはっきりと言い放った。

「突然だが、今貴公は死にかけている」

 淡々と書類内容を報告するような口調で言われたその一言は、意外にも崇史の胸にすとんと落ちてきた。

「そうか、君があそこから......あの暗い海から、僕を引っ張り出してくれたのか」

 暗い海......宇宙と同じ、底のない暗闇。そこでの記憶は、あってないようなものだ。そもそもそんな空間が存在したのかもわからない。朧な夢の彼方の記憶だった。

「貴公の意思が生存を選んだ。それがすべてだ」

 夜叉姫は否定も肯定もせず、ただ哀しそうに微笑した。

 するとここで、少女は崇史に向かって、唐突に右手を差し出してきた。握手を求められているのだろうか? と真意を窺って表情を覗き込んだとき、突然彼女はこう切り出した。

「私は人間ではない。「魘(オニ)」である」

「オニ?」と崇史がおうむ返しする。夜叉姫は首肯した。

 彼女が常人でないことは薄々わかっていた。有翼の人がいるものか。けれど「オニ」というのは? そういえばあの殺人鬼も自分のことを「オニ」と呼んでいたような。

「そう、あの殺人鬼と私は、もとをただせば同族である」

 にわかには信じられないような発言だったが、彼女がこんなくだらない嘘をつく理由は思い当たらない。疑ってどうなるものでもないのだから、崇史は「そうなのか」と頷いた。彼女も力強く肯定して、続けた。

「ゆえに私には、彼奴と対等に渡り合うだけの力が、本来備わっている。しかしその力を発揮するには、私ひとりだけではダメなのだ。必ず、人間の相棒がおらねばならぬ」

 彼女がそう切り出して、崇史に右手を差し出した意図を察せられぬほど、愚鈍ではなかった。

「僕が、その相棒とやらを務めればいいのだな」

「話が早いな」

 夜叉姫は満足げに頷いた。

「もしも貴公がこれを受け入れるなら、私は全身全霊を尽くし、死に瀕する貴公を救おう」

 それは是非もない提案であった。「頼もう」とあっさり頷いて、差し出された手を握ろうとした。

 しかし直前で、どういうわけか夜叉姫はその手を引いてしまった。

「生半な道ではないのだ......」

 唇を引き結んで、彼女は言った。

「貴公を、満足に死なせてやれる保証はない。今ここで、あの死の世界に戻り、身を投げたほうがマシやもしれんのだぞ?」

 彼女がどういう気持ちで、そんな翻意を促すようなことを言うのか、崇史にはわからなかった。表情に浮かぶ苦渋の色の裏には、きっと並々ならぬ想いがあるのだろう。しかし崇史にとっては、今さらな話だった。

「僕は答えをすでに出した。なんとしても生きあがくと......。二言はない」

 夜叉姫はどうしてか、ついに泣きそうな顔をした。けれど何も言わず、深くうつむいて沈黙したのち、ようやっと頷いて言った。

「私には使命がある」

 彼女はついに意を決したのか、決然と言った。

「あの殺人鬼のような、私以外の『オニ』と戦う使命だ」

 崇史は驚いて「他にもいるのか?」と問うた。

「私を入れて、全部で八体」

 そう告げて、崇史は再び手を差し出してきた。

「貴公には、その使命の完遂に協力してもらう。生きている限り、戦い続けてもらう。死んだほうがましと思うことになるやもしれん。否やがなければ、この手を取るがいい」

 差し出された手をまじまじと見、崇史は問うた。

「君の頼みを引き受ければ......」

「......む?」

「僕は、あの殺人鬼がもたらした悲劇に、相応の鉄槌を、ヤツに下せるということだな?」

 やはり崇史の答えは、何をどう勘案したところで揺るぎもしないのだった。

 その熱意が伝わったのか、夜叉姫は毅然として頷いた。

「必ずや」

「是非もない」

 崇史は少女の手を取った。

「よろしく頼む、夜叉姫さん」

「さんはいらぬ。これより我らは戦友ぞ、崇史」

 互いの手を強く握り合った、瞬間......

「契約は成った」

 赤々とした炎が、繋いだ二人の手から、瀑布の如くほとばしり出た。

「我が〈夜叉〉の名を、貴公に預ける。これより我らは一心同体。どうかこの選択を後悔してくれるな」

 炎が二人を包み込み、太陽のように膨れ上がって、白光の世界を焼き払った。

「さあ、共に人の世の悪夢を払おうではないか!」


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