【お知らせ】第弐話執筆にあたり、第壱話の内容を一部変更しました(2017/10/03)。今後の展開に関わる変更点は以下。

  1. 1-4/死の海:黒い海の中で、崇史が「黒い手」に掴まれるシーンを追加。
  2. 1-5/そして「オニ」になる:崇史が殺人鬼を刀で攻撃したシーン→ 崇史がこの時点では武器を使わないように変更。

以上の変更点は、今話の展開に関連しています。10月3日以前に第壱話を読まれた方は、上記の点をチラッと確認していただけると、第弐話をさらに楽しむことができます。

長々失礼しました。それでは引き続き、『夢想天鬼録』第弐話をお楽しみください。

2017/10/11


01/「魘」なるもの

《七月十一日・火曜日・仏滅》


 夢を視た。

 炎の熱にとろかされた地平線。

 墨塗りの空。

 喉を、肺を内側から焼く熱と煙。

 そこは地獄だった。地獄の光景であった。

 そんな地獄の只中で、少女がひとり、泣いていた。嗚咽を洩らし、誰かの肩に取りすがって泣いていた。その慟哭を聞くだけで、彼女の身にいったいどれほどの悲劇がもたらされたのか、察するに余りある。

 けれど自分は――その景色を眺める崇史は、ただの傍観者にすぎなかった。慰めることも、救いの手を差し伸べることもできない。

 少女はただ、たった独りで泣き続けていた。

 弱々しい姿は、母を失った赤子のようだ。彼女はこれから、どうやって生きてゆくのだろう。その二本の足で立つことさえ覚束ないのじゃないか。

 少女は泣いている。

 今も泣き続けている。

 ただ一人、地獄に囚われたままで。

 禮泉崇史(れいぜんたかふみ)は、決して届かぬとわかっていても、その少女に手を......。


 その朝は、不快な騒音で目が覚めた。

 ジリジリと厭らしい音に脳を揺らされ、崇史はうめきとともに布団から這い出した。

「うるさい......」

 音の淵源は目覚まし時計だ。六時半にセットしたアラームが、惰眠断じて許さずと音響をがなりたてていた。崇史は起き上がって、勉強机の上に置いていた時計の頭を、平手で引っぱたいた。

「ふあ、寝すぎだ............」

 いつもなら自然と目が覚めて、アラームに怒鳴りつけられるより先に目覚まし時計を止めてしまうのだが、今日に限ってはそれが出来なかった。アラームが鳴ってからもしばらく、崇史は泥のような眠りに戻りたくて頭を左右に振っていたけれど、部屋のカーテンを開けて朝日を浴びて、ようやく思考を再起動させるに成功した。

 ここは崇史の自室だ。リノリウムの床に最小限の家具という、まったく普段と変わりのない、日常の光景だ。崇史はなんだか、ずいぶん長い悪夢を見ていたような気がして、目をぱちくりさせた。けれどその悪夢は捉えどころがなく、よく思い出せない。

――そういえば昨日は、何やら凄まじい事があったような......。

 当惑してポリポリと頭を掻き、昨晩の出来事を思い返そうとした、そのときであった。

「お目覚めか」

 ふいに背後から声がした。聞き覚えのない女の声だった。崇史は飛び上がって驚いた。慌てて振り返った先で、押入れの襖が勝手にガタガタと音を立てて開いた。その奥の暗がりから、白い女の顔が、ぬうっと覗いてきた。

「おわっ! なんだ君は!」

「なんだとはなんだ、失礼な。まだ寝ぼけておるのか? 私は私――貴公の契約者、夜叉姫であるぞ」

 ここに至ってようやく、から回っていた崇史の思考の歯車が、かっちり噛み合って正常に稼働し始めた。

「そうか、昨日のことは夢ではなかったか」

「残念ながらな」

 ニヒルに笑みつつ、夜叉姫は襖を威勢よく開け放とうとした。そして途中でつっかえた。

「すまんがその襖、たてつけが悪いんだ」

「う、うむ......そのようだな」

 何度か右に左にガタガタ揺らしたのち、ようやく襖を開けきって、彼女は押入れから飛び降りてきた。

「君は本当に、これからもその押入れで生活する気なのか?」

「?? 何か不都合でも?」

「いやその......不便じゃないか?」

「そんなことはないぞ。慣れればむしろ居心地がよい」

 襖を閉め、夜叉姫はこちらに向きなおった。人形じみた美貌が崇史を見つめ、そして唐突にこうべを垂れた。

「おはよう、我が新たなる主よ。改めて、これらからもよろしくお願い申す」

 その様子を見て、崇史の心にようやく実感が湧いてきた。

 昨日の出来事はすべて現実であったということ。そして、夜叉姫の契約者となった崇史は、これから常に、彼女と起居を共にしなければならなくなったのだということを、今さらながらに理解した。

――まさか僕の人生に、こんな出来事が起こり得るとは......。

 崇史は呆れた心地で、昨晩の出来事を回顧した。


 昨日......七月十日の夜、「オニ」を名乗る殺人鬼の凶行に巻き込まれた崇史は、同じく「オニ」を自称する少女――夜叉姫と出逢った。死に瀕した崇史は彼女と契約し、今後彼女の使命のため共に戦うという条件と引き換えに生命をながらえ、同時に「オニ」としての力を獲得した。

 そうして殺人鬼との交戦に及んだものの、紆余曲折あって取り逃がすはめになってしまった。

 さて、問題はその後のことである。

「お兄ちゃん! 遅い! いったいどこをほっつき歩ってるの!」

 斯様に妹の喝を受けてしまった崇史は、彼女との即時合流を求められたのだが......。

「すまん、出先で少しばかり予想外の出来事に遭遇してしまってな。ちょっとだけ待ってくれるか」

 とりあえずはそう取りなすほかなかった。

 というのも崇史には、殺人事件の目撃者として、すぐに警察へ連絡する義務があったからだ。

「どうしたものか......」

 夜闇に落ちた裏路地で、崇史は頭を抱えていた。いったい何を悩むことがあるかといえば、それは警察にどう説明するべきかということであった。ありのまま話したところで信用されるはずもなし。むしろ崇史が犯人として疑われるのがオチだ。

 そんな時、夜叉姫がこんな提案をした。

「警察への通報は、私がしよう」

 いわく「貴公が第一発見者となれば、様々面倒があるだろう。事情聴取も受けねばならんし、最悪犯人として疑われるかもしれん。それは今後、私が活動するにあたり都合が悪い」とのことだ。

 崇史は困惑した。

「それは君が通報しても同じだろう。一応言っておくが、僕は自分の信念に照らして、あちらのご遺体を捨ておくことなどできんぞ」

 そう断わりを入れると、夜叉姫はうんうんと頷いたが、しかし意思は曲げなかった。

「うむ。そういう貴公の性格は、それなりに察していた。だから通報はしよう。ただし公衆電話から、私が、匿名でさせてもらう。それで折り合いをつけてもらえんか?」

 崇史はしばし思案して、重ねて訊ねた。

「だが万が一、後からそれがバレたら、僕たちはかえって疑われることになりはしないか?」

 すると夜叉姫は、にやりと笑って「それはありえんのだ」と否定した。

「どうして言いきれる?」

「ふむ、何故なら私は『透明人間』になれるからな」

 彼女は薄い胸を張ってそう言った。

「透明人間? それは比喩か? それともオニとやらの力なのか?」

「どちらも正解ぞ。我ら魘にはちょっとした便利な特性があってな」

 彼女は両手を広げて語った。

「私の姿は常人には見えぬ。正確には、見えていても『認識できぬ』。いわば、極端に影の薄い存在、それが私なのだ」

「しかし僕は、君の姿を最初から認識できていたぞ?」

「それは私が、私自身の姿を貴公に『見せよう』としたからだ。私はかなり自由に、自分の存在感の濃薄を操作できる。だからはじめに訊ねたであろう? 『私が視えるか?』と」

 その言葉で、ようやく崇史は腑に落ちた。殺人鬼に襲われた折、空から降下してきた夜叉姫は、崇史にそう訊いたのであった。

「こんな私の姿を追うことは、たとえこの国の警察機構がいかに優秀であろうと、彼らが人間である限り不可能だ。私の言ったとおりにすれば、事件を看過することもなく、我々が余計な縛りを受けることもない。主どの、承知してくれるか?」

 崇史はしばし思案したのち、不承不承ながら頷いた。

「仕方がない。頼もうか」

「頼まれた。それでは主どの、私は務めを果たしてくる故、貴公は早く妹御の元へ行ってやれ」

 そう言って夜叉姫は、再び黒い翼を背中から生やした。相も変らぬ美しさに、崇史が嘆息しつつ見入っていると、

「あっ、そうだ主どの」

 夜叉姫が唐突に振り返り、右手を差し出してきた。

「どうした」

 問うと、彼女ははにかむように笑ったのだった。

「お金をくだされ。ええ私、無一文でありますれば」

 公衆電話の代金が払えぬということだろう。崇史は引きつった笑みとともに、尻ポケットから財布を取りだしたのであった。


「しかし、何というか、君が『公衆電話を使う』だとか、『警察に通報する』だとか言うのを聞くと、何だか不思議な心地がするな」

 早朝、寝間着から学校の制服に着替えつつ、昨夜のことを思い返しながら崇史は言った。夜叉姫は一応崇史に気を使っているのか、彼に背を向けたままだ。

「不思議とは? 私は確かに人間ではないが、別に現代文明に疎いわけではないぞ?」

「たぶん、君のその喋り方が原因だろう。かなり古風な口調じゃないか」

「そうかね? 自分だとよくわからぬが、私にとってはこれが自然体ぞ。そう言う貴公の喋り口こそ、同年代の若者に比べれば、かなり堅苦しい方なのではないか?」

「ああそれは、祖父母の影響だよ。小さい頃、よく実家に遊びに行っていたから。今でもよく行くしね」

 雑談しながらも着替えを終えた。その気配を察したか、夜叉姫が崇史の方に振り向いた。

「家族仲が良いのはいいことだ。............ふむ、今日も学校かね?」

「勿論。事件の影響で午前授業のみだが、休みにはならないようだ」

 すると夜叉姫は眉根にしわを寄せた。

「昨日も言ったが、八体の魘(オニ)は互いに敵対しあっている。それに何より、昨日の殺人鬼は貴公の素顔を目撃した。その危険性は理解しているか?」

 脅しつけるように、彼女は声を低めた。けれど本当は心配して言ってくれているのだろう。それくらいは分かる。

 崇史の命の危機は、夜叉姫と契約した今となっても去っていない。

 いや、彼女に言わせれば、むしろ彼を取り巻く状況の危険さはかつてなく増しているのだ。

 あの殺人鬼の他に、八体の「オニ」がこの街にいる。そしてその全員と、夜叉姫は反目しているのだから。

 崇史は再び、昨夜のことを思い出した。


 常人にとって、自分は「透明人間」と同じであると豪語した夜叉姫の言は、確かに間違いではなかった。

「ほれ、見えておらんかったであろ?」

 これから想定される事態に対し、自分たちがいかにふるまうべきか、合議のため崇史は夜叉姫を自宅に上げた。当然、家にいる母や妹とは幾度も顔を突き合わせるはめになったが、二人とも夜叉姫の存在にはさっぱり気づく様子がなかった。

「まるで幽霊だな」

「似たようなものと思っていただいて結構。貴公だけが、霊を見とめる特殊な力に目覚めてしまったというわけだ、わはは」

 夜叉姫はかんらかんらと笑って、崇史の後をついてきた。彼女は長大な刀を竹刀袋に入れて背負っており、移動するたび、それが方々の家具にぶつかりそうになった。見ていてひやひやしてしまう。

「それにしてもすごい大きさの刀だな。大太刀というやつか」

「いかにも。持ち運ぶに不便でならぬ。だがこれは、私にとって無くてはならぬ特別な武器でな。致し方ない」

 二階への階段を上りつつ、夜叉姫はやれやれと肩をすくめた。

「そういえばどうして、あのとき君は僕にその刀を抜かせなかった? 折角の刀なのに、あの使い方では鈍器と変わらないじゃないか」

 裏町のビルの屋上で、殺人鬼と対峙した崇史は「オニオドシ」へと変身した。そして彼はこの大太刀を武器に戦おうとしたものの、夜叉姫は刃を抜くことを許可しなかった。

「特別な武器と言ったろう? そう易々と使える代物ではないのだ、これは」

「ふうん、後で詳しく説明してほしいな。とりあえず、はい、ここが僕の部屋だ」

 目的の部屋に到着し、崇史は扉を押し開けて夜叉姫を招き入れた。

 中に這入った彼女はじっくり左右を見渡し、こう評した。

「質素な部屋だな」

「殺風景と言っても怒らんぞ。実際そうだからな」

 勉強机と大きな書棚が一つ。そして壁に掛けられた木刀が一本。崇史の部屋にある主だった調度品はそれだけだ。

「そんな風には思わんよ。ほれ、こういうのは確か......『みにまりずむ』とか言うのだろ?」

「いや、そんな意識をしたことはなかったが......そう見えなくもないか」

 実際は、単に部屋がごちゃごちゃしているのが苦手なだけだった。

「まあ座ってくれ」

 押入れから来客用の座布団と、折り畳み式の小さな卓袱台を引っ張り出した。

 そこでふと、えらく喉が渇いたことに気づいた。思えば長らく何も口にしていない。

「ちょっと待っててくれ。麦茶を取ってくる。君も飲むだろう?」

「いや、私は結構」

 即座に辞されてしまった。

「大丈夫か? 何というか、相当な運動をしたじゃないか、僕たちは」

 あれを「運動」と表現するのもどうかと思いつつ尋ねると、夜叉姫は微笑しつつ首を横に振った。

「心配はありがたいが、無用だ。私はすでに貴公と契約を結び、この世への定着に成功した。これより私の活動エネルギーはすべて貴公から伝達される。母と胎児の関係のようなものと思ってくれ。ゆえに私自身の飲食は無用ぞ。むしろ、貴公がもっと飲食に気を遣うがよい」

「はあ......よくわからんが、便利なんだな」

 そういうわけで、崇史はひとりぶんの麦茶を持ってきて、卓を挟んで夜叉姫と向かい合った。

「君には聞きたいことがたくさんある」

 夜叉姫も居住まいを正して頷いた。

「ふむ、そうだろうな。よろしい、何でも聞くがよい。答えられる限り答えよう」

 崇史はしばし熟考した。聞きたいことは本当に無数にあった。どれから訊ねるかが問題だ。

 そう思案しているうちに、ふと夜叉姫の美しい翼が思い出された。今彼女の背中には翼などない。しかし先に見たように、彼女は鴉のような黒翼を自由自在に生やし、空を舞うことができる。

 その光景を脳裏に浮かべつつ、崇史はさっそく訊ねた。

「まず改めて確認しておきたい。君は、本当に人間じゃないんだな?」

「自分の目で見たものが信じられぬか? 有翼の人がいるとでも? 鎧に姿を変える人間が存在すると?」

「まさか。今一度君の口から聞きたかっただけだ。君が、いったい何者なのかを」

 崇史はぐいと身を乗り出した。

「『オニ』とは、何だ?」

「ふむ......」

 夜叉姫は腕を組んで黙考した。相応しい言葉を選んでいたのだろう。やがて腕をほどき、やにわに人差し指をピンと立てて、彼女は答えた。

「貴公ら人間にとってみれば、我ら魘(オニ)は、いわば『異界人』にあたる」

「異界人?」

 突飛な表現に面食らった。てっきり、妖怪の類だと説明されるものと思っていたからだ。

「なんだそれは? 『オニ』といえば、あの『鬼』だろう?」

「ふむ、おそらく貴公がイメージしている『オニ』と、私が言っている『オニ』との間にはズレがあるな」

 すると彼女は出し抜けに「何か書くものを貸してくれ」と求めてきた。要求に従い、メモ帳とペンを渡すと、彼女はさらさらとそこに一筆した。

 書いた文字は――「魘」の一字。

「これで『オニ』と読む」

「これは......『うなされる』の漢字だな」

「然り。いわゆる当て読みというやつだ。名付け親は人間らしいのだが、なかなか本質を突いた表現ゆえ、我らもこう自称している」

 彼女はペンをそっと置いて、話を続けた。

「我らは人間ではないし、そもそもこの世の存在ではない。〈夢境異界〉と呼称される世界からやってきた。ゆえに『異界人』『異界の民』という表現が的を射ている」

「〈夢境異界〉......。ふむ、ここでは素直に『この世の外』と理解させてもらおうかな」

「何だ、えらくすんなりと鵜呑みにするのだな」

「いちいち疑義を挟む必要があるか?」

 夜叉姫がこんなところで小さな嘘をつく必要はないし、何より崇史は、夜叉姫のこの世ならざる業を見た。あんなものを見せられれば、大抵のものは信じられる。

「今なら宇宙人がいると言われても信じそうだよ、僕は」

「宇宙人なぞは知らんが、きっといるのではないか?」

「うう、異界人が僕の前で宇宙人の可能性について言及している。頭がどうにかなりそうだ」

 思わず頭を抱えてしまった。生活の足元を固めていた「常識」が、こんなにもろいものだったとは。

 一度崩れたものは戻らない。世界はこれまで考えていた以上に広遠だった。ならば崇史の側が認識を変えなければならない。

 力の源泉は知識だ。崇史は問うた。

「......じゃあ、その『異界人』......よそ者であるところの君たち――魘が、どうして僕らの世界にいる? そしてどういう了見で、僕らの居場所で互いに闘争しているわけだ?」

 すると再び、夜叉姫は腕を組んで黙考した。そうして考え考え答えた。

「この世界に来たのは、単純に我々が、元いた世界にいられなくなったからだ。追い出されてしまったわけだ」

「追い出された? どうして?」

「それは私の方こそ知りたい。私の主観では、ある日いきなりこちらの世界に放り出されたのだ。万一、前の主に拾っていただけなければどうなったことか............。もし、主さまに......」

 すると彼女は、突然物思いに沈むようになって、しばらく沈思した。

「......夜叉姫?」

「あっ、す、すまぬ。......話を続けよう。ええと、どうして我らがこの世界にいるのかという話だったな?」

「ああ、そしてどうして同族同士で争いあっているのか、ということだ」

「それについての答えは簡単だ。それが我らの宿命であるからよ」

「宿命?」

 夜叉姫は神妙な顔で首肯した。

「我ら八体の魘は、もともとひとつの『親』から生まれた......いわば八つ子のような存在よ。だが問題は、その我らの『親』が失われたことでな」

 語るにつれ、少女の表情が険しくなった。組んだ両手の指に力がこもっていた。部屋の空気も、ぴんと張りつめていくように感じられた。

「我らの共通の目的は、失われた『親』を再生することだ。だが......」

 夜叉姫は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「その目的を達するための方法こそが、この争いの元なのだ」

 彼女は毅然として顔を上げ、崇史を見つめて言った。

「他の魘をすべて喰らい、力を蓄え、自らが新たな『親』になる。それが我ら魘の、全員が共有する目的である」

 そう告白する彼女の目は据わっていて、古強者のようだった。

「わかるか、主どの? 八体の魘はその全員が『自分こそが他の魘を喰らってやろう』と考えているのだ。互いに相容れるはずもあるまい」

「......君もそうなのか?」

 夜叉姫は答えず、ただ唇を三日月形に歪めた。肯定しているも同じだ。

「なるほど。僕に『戦わねばならない』というのはそういうわけか」

 崇史は思わず肩を落とした。

「確か君たちは、この世界で存分に力を奮うためには人間の相方が必要なんだものな」

「うむ、夢巫子と呼ばれる人間の相棒だ」

「呼び方なんてどうだっていいさ。ようするに僕ら人間は、君たちの宿命に付き合わされて殺し合わされるわけじゃないか」

 崇史は少なからぬ苛立ちを胸に秘め、吐き捨てた。

「............堪ったものじゃない」

 理不尽もここに極まれり、だ。自分は夜叉姫に助けられた恩義――正しい「因果」があるから別にしても、他の契約者はどうなのだろう? もやもやとしたものが胸に満ちた。

 夜叉姫は何も言わず、視線を手元に落としていた。その表情は窺えなかった。

 だがここで、崇史は気づいた。

「そうだ、これらはすべて魘の側の都合じゃないか。僕は君に恩があるから別として、すべての契約者が魘の都合に振り回されるだけとは限らないはずだ」

 思い返せば、昨日の殺人鬼も魘の意向を無視して、現場から逃走した。普通に考えれば、好き好んで殺し合いをする人間がいるわけがない。わずかに期待を込めて問いかけたものの、夜叉姫は「残念だが」と首を横に振った。

「実はこの戦いには、人間側にもメリットがあるのだ」

「メリット? ......殺し合いにか」

 苦々しい表情で夜叉姫は頷いた。

「たとえばもし、私がこの戦いを制し、他のすべての魘を喰らって元の力を――つまりは『親』の力だな――それを取り戻したとしたら......私は神に等しい権能を得るのだ」

「......神? ......権能?」

 頬の筋肉が引きつって、苦笑の形に歪んだ。

「それはまた、突拍子もない話だ。すると、具体的にはどうなる? 人間の側は、どういう恩恵に浴せるんだ?」

 夜叉姫は唇の端を釣り上げた。目だけが笑っておらず、むしろ怒気にも似た冷たさを宿していた。

「そうさな。その人間は魘を使い、この世のすべてを思うままにできるだろう。その者のあらゆる渇望を......願いを、叶える力を持つだろう」

「............願いを、叶える」

 その言葉を聞いた瞬間、まるで雷に打たれたようにかつての記憶が思い起こされ、駆け巡った。

『先輩には願い事ってあります?』

『その願いのために、人を殺せますか?』

 空の青と、海の青。ふたつの青が溶け込む水平線を前に、少女はそう崇史に問うた。未散だ。そう、それは未散の言葉だった。

 今ようやく、彼女の言葉が腑に落ちた。

「そうか、あいつはこれを僕にさせたかったわけか......」

 理解の外だった未散の言動が、一本の線となって繋がった。なるほど彼女は、確かに己の愉楽のために動いていたのだ。

崇史は苦々しい思いで、ポケットに入れていた封書を取り出した。

 内容は招待状だ。〈魘蠱遊戯〉なるゲームに崇史らをいざなう、招待状。

 ここに示されている遊戯とやらがどういう性質のものか、崇史はすでに容易に想像できるのだった。

「確かにこれは、ろくなことにならなそうだ」

 そう吐き捨て、封書を卓上に叩きつけた。

「戦い......か」

 やはりまだ、はっきりとした実感は崇史の中にない。自分がこれから、どのような心構えで事に臨めばよいのか、まるで定まっていない。

 にもかかわらず、このとき崇史は連想をしてしまった。戦いというからには、命を奪い、奪われるということもありうるのだろう。命を失う......すなわち「死」だ。 

 彼は思い出してしまった。あのどこまでも暗い、底のない海で見たものを。心魂にからみつき、しめあげ、すべての温度を奪い尽くそうとする、あの恐るべき手のひらの感触を!

 机上に置かれた崇史の手が、にわかに震えはじめた。

 今度のそれは、怒りによるものではなかった。

「............む、クソ、おかしいな......」

 止まらぬ震えをごまかすように、崇史は苦笑を深めて夜叉姫の方を向いた。

 するとその時、崇史の両肩に手が置かれた。

「私が守る」

 それは夜叉姫の、小さな、けれど力強い手のひらだった。

「貴公は、私が、守るからな」

 言い聞かせるように言って、彼女は崇史を見つめた。決意のまなざしだった。

 彼女のそのまなざしの裏に何があるのか、崇史はまだ知らなかった。

「............頼りにしている」

「頼られた。しゃかりき働くとも」

 夜叉姫は力強く胸を叩いてみせた。

 手の震えはいつの間にか止まっていた。崇史は己の内にある酸素の位置を確かめるように、ゆるゆると息を吐いた。

「主どの、ひとつ、どうしても伝えておきたいことがある」

 引き締まった口調に顔を上げると、夜叉姫は改めて居住まいを正した。

「私の戦う目的についてだ」

 彼女はこれまで以上に真剣な表情をしていた。

「先ほど私は、己以外の魘を喰らい、失われた『親』を再生すること――そうして神の如き権能を取り戻すことが、すべての魘に共通する目的だと言った。そのこと自体は間違いではないのだが、私はさらにその先に、別の目的を抱いている」

 ここで彼女は、床に置いていた竹刀袋を取り上げ、鞘を下にして立てた。

「私の目的は、すべての魘をひとつにまとめ、そしてまるごと封印することにある、この大太刀――〈魄喰刀〉は、そのための封印道具なのである」

 そう語る夜叉姫の目は一寸も揺るがず、刃のような輝きを放っていた。

「封印? どうしてそんなことを......? 君も魘のひとりだというのに」

「我が主よ。私が言うのもなんだが、冷静に考えてほしい。『神の如き権能』などというものが、世のため人のため、ひいては世界の秩序のために有益だと思うかね? しかもその力を、たった一組の人格が占有することが? 私は断言しよう。こんな殺し合いの果てに得られる力なぞ、ろくなものじゃない」

 彼女は呆れ混じりに、やれやれと肩をすくめた。

 崇史は無言でいたが、内心には「そりゃそうだ」と頷いていた。

「私はな、崇史よ。私の責任のもとで、この理外の力を処分してしまいたいのだ。この世界の秩序を歪め、不幸をまき散らす可能性のあるものを、放逐してしまいたいのだ。そのために戦うのだ」

 夜叉姫は手を差し出してきた。

「良きにしろ悪しきにしろ、ひとつの不完全な人格が、この世全てを差配するなどあってはならん。もしも悪意に溢れた人格が、全ての運命を掌握するとしたらどうする? その者のもとでどのような理不尽が為されるか、想像もつかん。許せるものか。この理念は、貴公と共有できると確信しているのだが、如何か?」

 その言葉を聞き、崇史はどう感じたか?

 はっきりいって、運命を感じた。

――僕たちは出逢うべくして出逢ったのだ! 

 崇史は力強く少女の手を握った。

「迷いが晴れた。僕は君とともに力を奮おう」

 握手を交わす少年と少女は、互いに似たような笑みを浮かべていた。第三者が客観的に見れば、それは悪巧みする政治屋のような黒い笑みに見えたかもしれないが、当人たちにとっては真心の笑みであった。

 何にせよ、合意は成った。

 この夜から、禮泉崇史と夜叉姫の闘争ははじまったのだ。

「そういうわけで、今後のことであるが、私より提案がある。貴公の身の安全を、最低限担保するための提案ぞ」

 手を解いた直後、夜叉姫が急に気軽な調子で持ち掛けてきた。

「うん、何かな?」

 コップに残っていた麦茶を喉に流し込みながら問いかけた。すると夜叉姫は突然、膝を曲げて美しい正座の体勢をつくった。

 よく見ると、彼女の両手の三つ指が、揃って床についていた。

「主どの」

 夜叉姫は穏やかな微笑みを頬に浮かべつつ、上目遣いで崇史を見た。

 その後ゆるやかに、流麗に、彼女は頭を下げて言った。

「ご同棲のほど、よろしくお願いいたします」

 崇史は口に含んでいたすべての液体を、コップの中に逆流させた。


――と、ここまでが昨夜の出来事である。

 崇史はそれなりにごねたものの、彼女は頑として譲らず、あまつさえ崇史と同室での生活を要求してきた。それで崇史の見出した唯一の妥協点として、半ばやけっぱちで「せめて寝室は分けよう。何ならあの押入れでも使え」と提案したところ、なんと嬉々として了解されてしまった。いわく、彼女は前の主と契約していた時も、押入れで寝泊まりしていたらしい。

「学校には、当然私もついて行かせてもらう。まさか文句はあるまい?」

 制服に着替え終わったところ、夜叉姫がそう確認してきた。すでに有無を言わさぬ調子だ。

「文句などない。ただし、きちんと隠れていてくれよ」

 夜叉姫の心配はよく分かるし、崇史もそこまでごねるつもりはない。一も二もなく頷いた。

「心配するな。何せ私の姿がバレては、貴公が契約者であると晒して回るようなもの。決してそんなことはできん。同じ夢巫子(ゆめみこ)が見てもそうと分からぬよう、気配を殺しておく」

 自信ありげににやりと笑った。

 けれどその笑みを見て、崇史の心には別種の心配事が浮かんだ。

「君がそうできるということは、相手も同様に気配を殺しているということか......」

「その通りだ。気を引き締めて臨め」

 まるで戦場に向かうような心地がした。こんなにも緊張感をもって登校する日がこようとは、人生とは分からないものだ。

「行こう、夜叉姫」

「応さ」

 禮泉崇史は、そうして学校へと繰り出した。


 異変は、その日のうちどころか、早くも朝のうちに発生した。

「これは......」

 崇史の下駄箱の中に、一枚の書状が入っていた。用心深く取り出すと、その書状の表には、筆文字でこう大書されていた。

――「果たし状」と。


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