03/私闘:反抗の牙

《七月十二日・水曜日・大安》


「気が変わった。このまま帰してやる気だったケド......」

 乾闥婆(けんだつば)は虚空に手を伸ばした。

「ちょっとだけムカついたから、景気づけにぶちのめしてやる」

 その動きに反応したように、頭の中で夜叉姫がはっと息をのんだ。

『主どの! 今すぐ退け!』

 崇史は驚いた。

『退く? まだ一合も打ち合っていないぞ』

『今は戦うべき時ではない! 敵は「想器」を扱えるようだ。今の我らでは太刀打ちできぬ!』

『ソウキ? 何のことだ?』

 直後であった。崇史らの論争を消し飛ばすように、少女の叫びが夜を割った。

「纏武〈破縄槌〉!!!!」

 彼女の伸ばした手の先――何もないはずの虚空が、ぐにゃり、と歪んだ。

 そしてその揺らぎから、突如として、巨大な金属の塊が引きずり出された。

 それは巨大な金棒であった。巻貝を縦に引き伸ばしたような、ねじくれた形をしている。大柄な乾闥婆の全身よりも、なお大きい。天に伸びる巨木のようだ。

「なっ!? なんだアレは!?」

 吃驚が思わず声に出てしまっていた。

「は? あんた、想器も知らないの? そんなんでよく、あんな大それたことを言えたもんね」

 嘲笑が飛んできた。肩に担ぎ上げた巨大な金棒が、こちらを侮蔑的に睥睨している。

『主どの、あれは想器という。魘と夢巫子......ふたりが一体となってはじめて召喚できる、いわば魘鎧専用の武器ぞ。あれを召喚できる時点で、敵方は相当な練度であるぞ』

『そうか、それは大変だ』

『だから撤退しろと!』

『駄目だ。ここで舐められるわけにはいかない』

 崇史は一言で切って捨て、拳を構えた。

『ここで軽んじられては、二度と交渉のテーブルにつけなくなる!』

 金棒を担いだ乾闥婆が、タンクの上から身を躍らせた。凄まじい重量を感じさせる外見に反し、彼女は音を立てず、静やかに屋上に降り立った。

「剣を抜きなさい。まさかこの私に、その貧弱な拳で太刀打ちできると思ってるんじゃないでしょうね?」

 カミソリように、冷たく鋭い声だった。そこには明確な敵意が臭っていた。

 しかし夜叉姫は、崇史に否という。

『駄目だ主どの、この刀は時が来るまで抜いてはならぬ。今ばかりは戦おうとしなくともよいから、早く退くのだ!』

 拳を構えたまま動かずいると、少女はしびれを切らしたようだ。

「あっそう、そっちがその気なら」

 そう言って金棒を一振りした。夜風が鳴り、渦を巻き、金棒にまとわりついて獣の如き唸りを上げた。

「現実ってヤツを、教えてやるわ」

 それが最後通牒であったらしい。

 瞬間、白銀の巨体が消えた。

 消えたように、見えた。

 ただ、闇夜の中に、黒々とした空に、一陣の白銀が曳光を引いたように、見えた。

 直後。

「ブッッッッッ飛べ!!!!」

 真横に気配。そして衝撃。

「ぐっ......オッ!」

 それは一瞬にも満たない刹那のことだった。崇史は咄嗟に、背に負っていた魄喰刀を体の前に引き、盾として構えた。そしてそこに、乾闥婆の大金棒のフルスイングが直撃した。

 反応できたことが奇跡だった。気づいたとき、崇史は高々と空を舞っていた。

「うおおおおおおおおおおおおお!!!」

 頭上の月が近づいたような気がした。風が轟々と唸り、耳元を吹き抜けていく。両手の骨がビリビリとしびれていた。刀で受けられたのは僥倖だった。腹に受けていたら、魘鎧を纏っていたとしても、肋骨が砕けていたかもしれない。

 この前の殺人鬼の動きとは、さらに次元が違う。夜叉姫が警告したのはこのことだったのか。

 崇史の体は天高く舞い上がり、百メートルは吹き飛んで、すでに校庭の中心を飛びすぎようとしていた。後悔する暇もない。賽は投げられた。とまれきちんと着地し、体勢を整えなければならない。崇史は下の地面に視線をやった。直後。

『何をやっとる主どの! 敵が来ているのだぞ!?』

「は? ......なッ!?」

「シロウトめ」

 目前だった。白銀の体が目と鼻の先にあった。彼女は落ち行く崇史の頭上で、星空を背に、大きく金棒を振り上げていた。

 彼女は空を舞っていた。白銀に輝く鎧姿は、月光と重なり、濃紺の夜空を白抜きして浮いていた。

 彼女の背中から白いものが噴き出して、屋上からの軌跡を空に刻んでいた。それは蒸気だった。夥しい量の蒸気だ。熱とともに噴き上がるスチームは、獣の遠吠えじみた大音響を奏でながら、校舎の屋上からこの夜空の一点へと、一条の白線を引いていた。

「磨り潰す」

 その信じがたい光景に目を奪われた直後、崇史の頭上から金属の塊が落ちてきた。

『防げ崇史!』

「うああああ!!」

 絶叫とともに、再び魄喰刀を直上に掲げた。衝撃。

 質量が落ちてくる!

 衝撃が全身の骨に響き渡った。瞬間、崇史の体が加速した。強烈な力で押されているのだ。宇宙ロケットの先端に括り付けられたら、きっとこんな加速感と風圧を味わえるであろう。けれど彼は「打ち上げ」られているのではない。「撃ち落と」されているのだ! 地面へ向かって一直線に!

 ゴールへの到達は一瞬だった。吹き荒れる蒸気が崇史の視界を染めた。瞬間、崇史の体は地面に叩きつけられていた。刀での防御など紙切れ一枚ほどの意味もありはしなかった。防御ははじかれ、彼は胸の中心に金棒の頭を叩きつけられ、そのまま地面に「着弾」した。

 潰れた。崇史の胸郭が、潰れた。

 一瞬後れて、爆音が頭蓋に響いた。それは天地を揺るがすような衝撃で、実際に校庭は鳴動し、校舎のガラスがガタガタと音を立てた。校庭の、崇史が叩きつけられた箇所はごっそりとえぐれ、土塊が空高く吹き上がり、数秒ののちバラバラと雨滴のように降り注いだ。当然、崇史自身はその現状を知る由もなかったけれど。

 決着は、打ち合うまでもなくついた。校庭に穿たれたクレーターの中心で、半ば地面に埋め込まれた崇史はぴくりとも動かなかった。

「嘘でしょ、よっわ」

 メイルの継ぎ目から、内部に残った蒸気を吐き出しつつ、乾闥婆は唖然として独り言ちた。彼女は自身の頭の中に呼びかけた。

『こいつの魘、あんたたちの「姉貴分」なんでしょ?』

『その通りではありますが......。まあ、もともと縁(えにし)のない組み合わせでは、これが限界ということなのでしょうな。契約して日も浅いわけですし』

『ふうん、そういうもの?』

『そういうものです』

 地に倒れ伏した崇史はすでに動かなかった。般若面の端から、一滴の血が零れている。右胸の形が潰れて変わっていた。心臓は外れたようだが、肺の片方は完全に叩き潰れているだろう。魘の治癒力があっても、そう簡単にどうこうできる程度の怪我ではあるまい。

 今なら殺せる。

『主よ、この者はあなたの目的に適いません。ここでトドメを』

『............ええ』

 再び、メイルの継ぎ目から蒸気が漏れはじめた。乾闥婆の魘鎧は、この蒸気の力で自身の体を推進、加速させる。図体に似合わぬ高速で繰り出される一撃は、岩をも砕く。

 少女は足を肩幅に開いて、倒れ伏す黒い魘鎧の頭を見つめた。

 敵は動かない。

 やれる。

『トドメを。戦うと決めたのでしょう?』

「............わかってるッ」

 声に出して、少女は意気を高めた。想器〈破縄槌〉を、強く握りしめた。

 禮泉崇史は動かない。

 彼はまさに......またも、死に瀕していた。

『主どの! 主どの! 気を強く保たれよ! 我が声を聞いてくれ、主どの!』

 夜叉姫の呼びかけにも答えぬ。

『くっ、どうして! どうして私の主は、こうも揃って生き急ぐのだ......ッ!』

 泣き叫びたい気持ちをこらえながら、夜叉姫は意を決した。

『少しばかり、体を操らせてもらうぞ......』

 崇史の魘鎧が、彼自身の意図とは関係なく動き出した。はじめは腕が持ち上げられ、軋みを上げながら上半身を起こそうとする。けれどその動きはぎこちない。

「乾闥婆!」

 少女は叫んだ。金棒を握る彼女の手からは、玉の汗が噴き出していた。

『ご安心召されよ。魘が無理やり動かしているだけです。もう、まともに動ける状態ではない。一振りで屠ってさしあげましょう』

 少女の中で魘が囁いた。少女はまなじりを決して、金槌の柄を握りこんだ。

「......わかってるってば............ッ!」

 少年が完全に体を起こす前に、少女は再び金棒を振り上げていた。

 夜叉姫はすべてが間に合わぬと知っても、絶望に膝を折ることさえできず、主を生かそうと奮闘し続けた。

 ふたりの魘と、ひとりの少女、それぞれがそれぞれの思惑を秘めて、今、意図せずはじめられた初戦に決着をつけようとしていた。

 そんななか、禮泉崇史だけが、違う景色を見ていた。


『久しぶり、詠子』

 再び、潮騒を聞いていた。

 ただし此度は、あのどす黒い海ではない。

 水平線で、鮮やかな青と青が交わる、光の海だ。

 まばゆいほどの青色のなかで、崇史は少女の影を見た。

『久しぶり、崇史くん』

 少女ははにかんで笑った。えくぼが出来ていた。風もないのに、黒髪が空に舞い上がって、さらりと流れた。着ている病衣も薄青色で、彼女のシルエットは、背景の色に滲んで溶けてしまいそうだった。白い肌だけが、青い水彩画のカンバスに残された、ただ一点の塗り残しのように、浮き上がって見えた。

 崇史は困ったように頬を掻き、はにかんだ。

『どうやら僕は、また死にかかってるみたいだね』

 他人事のように言うと、少女は口元を押さえて鈴の音が鳴るように笑った。

『まあ、それはとんだ災難だわ。相変わらず、生き急いでいるのね』

 こちらを心配するつもりは、まったくないようだった。

『君は死ぬ前の幻? それとも、君もまた死の世界の住民なのかな?』

『さあ? 今のあなたにとって、それは重要なことなのかしら?』

『......わからない』

 崇史は視線をそらして、周囲の景色を見渡した。

 どこまでも、青が続く。

『この前と、様子が違うね。なんというか、明るい。君がいるからかな?』

『そうかしら。死の本質は変わらないわよ』

 詠子は虚空に右手を伸ばして、パチン、と指を鳴らした。

 直後、視界が歪んだ。ノイズが走った。

 青が消し飛んだ。どす黒い海が、どす黒い空が、崇史を押しつぶそうと迫ってきた。怒涛のように! そして押し寄せる海嘯の向こうには、あの巨大な、ねじくれた、何もかもを奪い去ろうとするてのひらがあって......。

 直後、その光景が消え去り、再びもとの青色が戻った。

『相変わらず恐ろしいね、ここは』

『でしょう? 死は恐ろしいものよ』

 崇史は怯えを押し隠すように、平坦な声で言った。詠子はくつくつと笑った。

『でも、怯えているだけでいいの? 崇史くんは、そういう在り方をやめたんじゃなかった?』

 そう問いながら、詠子は柔らかく笑むのだった。

『ああ、君、もしかしてそれを言うためにここへ?』

『まさか。生き急ぎがまたぞろこっちへ来たみたいだから、顔を見たいと思って』

 今度は意地悪そうな笑みになった。

 崇史は思わず吹き出した。

『ありがたいことだ。でも、実は心配は無用だよ。僕はそう易々と死んでやらないって、決めたものでね』

『あっそう、でも実力の伴わない意志は、力の前には簡単に屈服させられるものだわ』

 後ろ手に組んで、詠子はスキップで歩み寄ってきた。彼女の足の下で、リズミカルな一歩が踏み出されるごとに、海面が七色にさざめいた。

『それはわかってる。だからこれから、色々対策を考えるつもりで』

『遅いって。今のまんまじゃどうしょもないわ』

 顔を覗き込んでくる詠子の顔は、いたずらっぽい笑みのままだった。

『私、夜叉姫に泣かれるのはイヤなのよね』

『えっ、君がどうして彼女の名を?』

 すると詠子は嬉しそうに笑って、

『それはあとで、夜叉姫自身に聞いてみなさいな』

 などと気になることのみ言い放って、とん、と崇史の胸に手を置いた。

『一度だけ、助力してあげる。今回だけ、特別サービスなんだから』

『いったい何を......』

『まあ見てて......』

 直後である。詠子の手が、ずぶり、と崇史の胸の中に沈みこんだ。

『なっ! なんだこれは! 君はいったい』

『まあまあ、私と崇史くんの仲じゃない。胸の内くらいどうってことないでしょ......よっと!』

 その直後、崇史の心臓から、頭の中に向かって、巨大な波があふれ、押し寄せてきた。その波は彼の思考を洗って、もみくちゃにした。

 あらゆる記憶が、脳内をぐるぐると巡った。汚損された本の前で立ち尽くす記憶。詠子と河川敷に並び座って、水面に石を投げた記憶。実家の道場で汗を流した記憶。帰宅した父の、大人の哀愁を忍ばせる背中。母のつくる料理の味。甘えてくる幼い妹。そしてある日......水面(みなも)に揺れるただなかで......


 黒い腕が、

 僕らを、

 押しつぶそうとして、

 僕はその腕から、

 誰かを、

 守りたくて、


『君は戦士のはずだ。戦士には戦う武器がなくっちゃ』

 直後、少女が腕を引き抜いた。

 彼女の手には、一振りの刃が握られていた。いや、刃などという高尚なものではない。ただの、不格好な鉄の棒だった。

『形にするのは君だ。君は、どういう人間になりたい? なぜ戦う?』

 問いながら、彼女はその鉄塊を差し出してきた。

『決めるのは君だ。君が武器を取るんだ』

 崇史は呆然と、それを見つめて......

『沈黙は敗北主義なのよ? 少年!』

 はっとした。

 詠子がニヒルに微笑していた。

 ともに悪巧みをした、かつての河川敷で見たような笑みだった。

 その笑みを見つめているうち、崇史にも同じ笑みが伝染していた。

『そうだな。沈黙は敗北主義だ』

 崇史はその鉄塊を掴んだ。瞬間、炎が鉄を包んだ。

『理不尽にこうべを垂れるのは腹が立つ』

 詠子はうんうんと頷いた。

『ついでにいえば、やられっぱなしは性に合わない』

『やっぱり君は、昔と変わらない、私の悪友なのね』

 呵々大笑する詠子の眼前で、崇史の手に握られていた鉄塊が、赤熱し、ぐにゃりとその形を変えた。鉄はドロドロに溶けて、まったく別の姿へと形を変じていく。

『ならば崇史くん、君はどうする? ボコボコにのされて、黙ってる?』

『まさか』

 崇史は前を見た。詠子の姿にノイズがかかっていた。一直線だった青と青の境界線が、ぐにゃぐにゃと歪んでいた。

 どす黒い色が、そこから滲み出していた。

『じゃあ、蹴散らしてやりなよ。こんなくだらない、取るに足らない理不尽ぐらい』

 死の海嘯が迫ってきた。直後、崇史の足がぐんと引かれて、彼は海面下に引きずり込まれた。彼の足を、黒い、ねじくれた、途方もなく巨大な手が掴んでいた。

 その腕は再び、しつこくも崇史を押しつぶそうとしてくる。

『僕は戦うと決めた。二言はない』

 けれど崇史は臆さなかった。手の内にある猛烈な熱を、振り上げた。海面が赤光し、ごぼごぼと泡立った。

『貴様如きに、捕らえきれるものか!!』

 そしてそれを、恐るべきてのひらに向けて、力いっぱい振り下ろして......


 閃光が、闇夜を裂いた。

 ショックウェーブが夜の校庭を駆け抜け、空気を揺らした。校舎がビリビリと揺れ、桜の樹が夏の葉をにわかにざわめかせた。

 銀色の光が宙に舞っていた。光はそのまま地面へと堕ち、二度三度ともんどりうって転がった。

 銀色の光は、巨大な甲冑のもの、そのなかの少女は、驚愕のあまり声も出なかった。

『そ、そんな莫迦な......』

 彼女の中で、いつもは落ち着いているはずの男の声が、震えて言った。

『こんなにも早く、こんな突然に、纏武の儀を!?』

 白銀の甲冑は、自分たちの身に何が起こったのかも今一つ理解できぬまま、よろよろと起き上がった。

 彼らの前、校庭の中心、大いに抉れたくぼみの中で、彼は立っていた。

 その両手に、二つの輝きをたずさえて。

「待たせた。ようやく五分の勝負が出来そうだ」

 その手に握られていたものは、金属の輝きだ。

 刀ではない。当然金棒でもない。それよりはるかに小さい。

 大きさは小太刀に近いが、それよりはるかに細く、かんざしに似た形状をしている。同心が持つ十手に近い。

「想器〈砕凶手〉」

 小さな声で、少年は呟いた。

 彼の両手に握られている二本の武器は、釵(サイ)と呼ばれるものだ。現代では琉球古武術に用いる、近接戦用の武装である。

 45センチほどの鉄棒で、刀でいえば鍔にあたる箇所に「翼」と呼ばれる鉤が付いている。二本一対、両手で扱う武器だ。

 彼はくるくると手の内でそれを弄び、逆手にもって構えた。

「さっきの言葉は曲げないぞ。僕はこのゲームを破壊する。君には、土俵に立つ前に屈服してもらう」

 きっ、と白銀の敵影をねめつけた。

『あ、主......どの......』

 今まで絶句していた夜叉姫が、きれぎれに呼びかけてきた。

『心配をかけたな』

『いったい、これは......。私には何が何だか』

『応、僕にもわけがわからんぞ』

 言葉と裏腹に、崇史の言い方は朗らかだった。

『天の差配とでも思おうじゃないか。僕たちはまだ、ここで倒れるには早いってことだ』

『う、うむ......斃れられぬという点ではその通りだ』

『な? だから今はそれでいい』

 手の内で二振りの釵を振り回すと、ひょうひょうと高い風鳴りが静寂に沁みた。はじめて手にした武器だが、不思議なほど馴染むのだ。これが想器とやらの性質なのだろうか。

 そのとき汽笛のような甲高い音が鳴った。見ると乾闥婆の体が、大量の蒸気を吹き上げていた。それは体だけでなく、彼女の手にしている金棒からも同様で、巻貝のようにねじくれた突端部に開いた「口」から、雪崩のような白色が噴き上がっていた。

「やってやろうじゃない......」

 金棒をぐるりと振り回し、肩に担いだ。

「私はやれる。戦える。これは私の、私が決めた戦いなんだ......!」

 応ずるように、崇史も釵を構えた。

 直後、乾闥婆が大股に一歩踏み出し、地を蹴り駆けだそうとして......。

「どう、して!」

 ピタリ、とその足を止めた。

「どうして止める!? 乾闥婆!」

『目的はすべて果たしたでしょう? 敵が対等とあれば話が違う。お退きなさい。ここでこれ以上、体力を消耗することはなりません』

 それは彼女の脳内に響く声だった。相棒である魘――乾闥婆の声だ。

『忘れたのですか? 本番は、きっと明日だ』

『でも!』

 などというやりあいは、当然相対する崇史のあずかり知らぬことであったが、彼は猛烈に既視感を覚えていた。先日、あの殺人鬼もまた、魘との意見のすれ違いで逃走したのだった。きっと似たような状況に陥っているのだろう。

 やがて鎧の少女は、地面が抉れるほどの強さで金棒を突き立てて、投げやりに「わかったわよ!」と叫んだ。

「禮泉崇史、今夜は命拾いしたわね! 明日何が行われるか知らないけど、なんにせよ、いずれ必ず決着をつけてやるわ!」

 その直後、彼女は金棒を天高く振り上げた。

 突端の「口」から、白い蒸気が爆発的に膨れ上がり、それが彼女の体を包み込んだ。蒸気はやがて空気に希釈され、夜の景色に溶け込んで消えていった。しかしそれよりも早く、あの白銀の甲冑姿は影も形もなく消えていた。

 崇史はそれを追おうとはしなかった。あの殺人鬼であればまだしも、逃走する相手を追う気にはならなかった。

 夜叉姫もそれを望みはしなかった。

「ふう、ひとまず、助かったな」

『............そのようだ』

 か細い声で夜叉姫が答えた。沈鬱な気配をまとわせていた。

 けれど崇史は、残念ながらそんな彼女を励ますことができなかった。

「ちょっと、限界かも...............」

 呟いた直後、崇史の身を包んでいた甲冑が、光の粒子となって弾けた。微細な光点が夜を染めてゆくなか、崇史はその場でふらりとよろけ、前のめりにどうと倒れた。

 直後、散った光は少女の肉体を再構築した。

「主どの!? 主どの!?」

 夜叉姫は崇史に取りすがり、なんとか上半身を抱き起してやった。崇史の傷はすでにかなり治癒していたが、肝心の体力が伴っていないようだった。

「すまないな、君の忠告を無視したばかりに」

「そんな! 私が、私が至らなかったのだ......」

「............泣くなよ」

 夜叉姫本人は、自分の頬に伝う冷たさに気づいていないようだった。彼女は顔をくしゃくしゃにしていた。

 彼女の涙の源は、たんに崇史への好意というようなものではないのだろう。それよりもっと根が深いもの......彼女が「前の主」と呼ぶものの存在が、大いに影響しているのだ。

 けれど単純に崇史は、女の子に泣かれるのは嫌なものだな、とだけ思った。

 そう思ったところで、崇史の意識がふっと遠ざかっていった。必死の表情で呼びかける夜叉姫の顔を眺めながら、彼の意識は闇に落ちた。


 光の粒子が、暗闇の中に散った。光の中心には小柄な少女の姿があった。

 そこは小さな部屋だった。年季の入った勉強机が並んでいる。その上に、少女趣味的なかわいらしい人形や、いかついロボットのおもちゃなどが、統一感もなく、ついさっきまでそこで遊んでいた跡のように、乱雑に放り出されていた。

 部屋の窓ガラスが開いていて、カーテンが外からの風に揺られていた。星明りのみがにじむ暗闇の室内、散り散りになった光の粒子が、宙の一点で凝集し、人の形を取った。

「頭は冷えましたか」

 そこから現れたのは、軍装風のジャケットを身にまとった、長髪の男であった。彼は慇懃に、部屋の中央で佇む少女に声をかけた。

「......ええ、悪かったわ。本当はあそこまでやるつもりじゃなかったのに」

 彼女は赤みがかった長髪をかきまぜながら、疲弊した笑みを浮かべた。

「カッとなりやすいのが、あたしの欠点ね」

「私も煽ったのですから、同罪ですね」

 少女は肩をすくめた。男はかすかに口角を持ち上げた。

「あの青年に会ってみて、収穫はありましたか?」

「そうね、とりあえず『未散』の名前を知れただけでも、収穫といえば収穫かしらね。それさえ本名かどうかは、わかりかねるのだけれど」

 男は勉強机に腰を預けて、じっとりと少女を見据えて問うた。

「どうしてそこまで、あのアマランサスという少女に執心されるのです? 確かに彼女の存在は、我々にとっても興味深いものですが、貴女の興味関心はまた別のところにあるようだ」

「あたしはあなたに何もかもをさらけ出すつもりはない。そう言ったはずよね?」

「............確かに」

 にべもない返事であった。少女はその話題に深入りすることを避けていた。

「彼女が握っているであろう情報が、私達にとって重要であろうというのは、共通した見立てのはずだわ」

「その通りでございますな」

 吹き込む風が少女の髪を揺らした。彼女は振り返り、開きっぱなしになっていた窓ガラスを閉ざした。

「それで、今後どうします? 彼の言い分はあの通りです。貴女の期待する役割を果たせるようには、思えないのですが」

「まだ......わからないわ」

 少女は胸の内ポケットに収めていた、一通の封書に、服の上から指を触れた。

「すべては明日、判断するわ」

 明日、それはそう......アマランサスからの招待状に示された日付。

〈魘蠱遊戯〉のはじまりの鐘が、いよいよ鳴るのだ。


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