04/ 魘蠱遊戯

《七月十三日・木曜日・


「ああ、愉しみ......」

 夜闇に冷やされた、涼やかな風がねじれて吹き上がり、少女の短い髪を巻き上げた。彼女は目を細めて、力強い風を甘んじて顔に受けていた。その顔はとても満足そうだった。

「いよいよ、いよいよ幕が上がる」

 彼女の姿はビルの屋上にあった。市の中で一際高く、どっしりとしたビルだ。巻根市の市庁舎である。

 市庁舎の屋上の、フェンスさえない縁に、少女は何食わぬ顔で座って、夜明けの街を睥睨していた。視線の先、街の北東にこんもりと盛り上がる舘琵山(たつびやま)の向こうから、朝日がじんわりと顔を出していた。山の頭にかかった雲が、紫に染め上げられていた。眼下のビルや民家の足元から、影が長々と西へ伸びている。

 この屋上は一般には閉鎖されているはずだった。しかし少女は当然のようにそこに座っている。しかもこの屋上にいるのは、彼女ひとりだけではないのだった。

「宿願が叶うか」

 少女の背に声がかけられた。太い男の声だ。ひどく暗鬱な気配を漂わせている。

 少女は爛漫な笑みを浮かべつつ、声の方向に振り返った。視線の先、彼女の背後にはふたりの人影があった。

 ひとりは男だ。乱れなくスーツを着ていたが、よく見るとそのスーツは随分とよれていた。革靴にも曇りが目立つ。伸びた前髪の下の目元に、夜より深い暗がりを潜ませていた。男の目は、その暗がりからひっそりと覗く犬の瞳のようだった。暗鬱な声の男だったが、彼の目元にも同様に、拭い難い陰が漂う。ビルの足元から上ってくる風が、男のネクタイを肩のあたりまで持ち上げていた。

 男のかたわらに、もうひとりの姿があった。こちらは女だ。しかも、まだ幼い少女である。彼女の髪は燃える朝日さえかすむほど、輝かしい金色をしていた。その下の真っ白な顔は、職人が丹精込めて掘りこんだ人形のように、ひとつの造形物として完成されていた。整い過ぎた美貌は、現実感を希薄化させるのだろうか。彼女はこの世のものではないようにさえ見えた。ただしその少女の前髪の下に潜められた瞳の、黄金の輝きは、あらゆる荒くれ者をも怯えさせるほど、凄みに溢れていた。野生の烈しさが、その瞳に込められていた。迷彩服にも似た、カーキ色の服を身にまとった彼女は無表情のまま、瞳にのみ熱を宿して、遠い空を眺めていた。

 ふたりの姿を見て、ビルの端に腰かけた少女は嬉しそうに、質問に答えた。

「まだまだだよ。まだ、何もかもはじまってさえいないんだから」

 彼女は再び、ビルの足元を見下ろした。

 投げ出された彼女の足の下では、すでに人影がちらほらと、巣穴を出入りする蟻の群のように、忙しなく、這いまわっていた。

「でも、ようやく賽が投げられる」

 見下ろす彼女の細い目が、なお一層、糸のように細められた。

「一度はじまれば、止まらない」

 少女は――未散は、再び振り返って、ふたりの人影に向けて、はずむ心を隠そうともせず、歌うように言った。

「地獄が見れるよ、にいさん!」

 今日は七月十三日、六曜では赤口にあたる。

 〈魘蠱遊戯〉がはじまる、その日だった。


 また、夢を視ていた。

 空が燃えている。血のように紅く、燃えている。

 空の下で、少女が泣いていた。誰かの肩に取りすがって泣いていた。

 崇史はまたぽつねんと立って、その背中を見つめている。見つめているだけだ。

 涙に暮れる彼女は、きっと大切なものをなくしてしまったのだろう。心に穿たれた空白の大きさに、耐えられないのだろう。

 そしてその空白を埋められるものは、もはやどこにもないのだ。誰にも代われはしないのだ。

 だから少女は泣き続ける。孤独に、むせび続ける。

 崇史は、そんな彼女の背に触れようと、手を伸ばそうとして......。



 目が覚めた。

「おはようございます。我があるじ」

 柔らかな視線が見下ろしていた。閉ざされたカーテンの隙間から、森の奥の木漏れ日にも似た光の帯が伸びていて、視線の主を照らしていた。陽光は彼女の首筋を通り、小袖の襟と、わずかにくぼんだ鎖骨を照らして、陰影を際立たせていた。崇史の心臓がにわかに軋んだ。逆光の暗がりに沈んだ少女の瞳から、雫が伝っているような気がしたから。

 けれどそれは気のせいだった。彼女の頬は白く乾いていた。

 そのころには、崇史の頭の中から夢の記憶が消えていた。残されたのは、何か気がかりな、悪い夢を視たのだという余韻だけ。しかしその余韻が気にかかって、掴めば消える靄のような記憶に、食い下がって手を伸ばしていると、見下ろす少女が口を開いた。

「お体は大事ないか?」

 彼女の指が、掛け布団の上から、そっと崇史の胸にかかった。彼女が何故そのようなことをするのか分からず、一瞬当惑してしまった。けれどそこでようやく、崇史は昨晩のことを思い出した。

 そう、昨晩崇史は、乾闥婆と名乗る魘と一戦を交え、そして重傷を負って倒れたのだ。

 右手を動かし、胸に手をやった。潰れたはずの胸は、今やしっかりと肋骨に包まれている。

「傷は治っている。だけど、体がえらく重い......」

 正直に告げると、夜叉姫はため息とともに言った。

「今日は学校を休め。夜までに、全快ならずとも、しっかりと体力を戻しておかねば」

「む......」

 布団に横たわったまま時計を見やった。時間はすでにギリギリだ。けれど今は、とてもではないが体を動かせそうにない。

「是非もないか......」

「うむ、是非もない」

 夜叉姫は肩をすくめた。そして再び、崇史をまっすぐ見下ろしてくる。表情が柔らかかった。だが崇史には、自分がどうしてそんな顔を向けられるのかわからず、こそばゆかった。

「その............」

「......ん?」

 夜叉姫は小首を傾げた。自分から口を開いたにも関わらず、何を言うべきか途中でわからなくなってしまって、崇史は口をまごつかせた。

「............心配をかけたな」

 さんざん迷ったすえに、いささかぶっきらぼうな口調で、それだけ言った。

 夜叉姫はしばし面食らったような顔をしていたが、やがてほんの少し、口元をほころばせた。

「仕様のない主だ」

 夜叉姫と出逢って、これで三日目。まだまだ付き合いは深くない。

 けれどそんな崇史にも、何となく察せられることがある。

 彼女が時折見せるこの優しさは、崇史という人間に対する好意とは、あまり関係がないということだ。

 これは夜叉姫という少女の、ただの感傷に過ぎないのだ。彼女は崇史という青年を通して、別の誰かの姿を見ている。

 そしてその誰かは、きっと彼女の過去にしかいないのだ。

 そこに思いを致したとき、崇史は彼女に、何か聞かねばならぬことがあったのではないかという気がした。どうしてそんな気がするのか、と考える。思い起こしたのは昨晩の出来事。昨晩崇史は、あの乾闥婆と名乗る魘と戦っている最中に、誰か別の人物と会ったような......。

 けれどその記憶も、やはり悪夢と同様に、手を伸ばせば消えてしまうのだった。

「..................理不尽だ」

 崇史は誰にも聞こえぬように呟いて、顔を横に向けた。

 朝日が頬に熱かった。



 それからの崇史はというと、夜叉姫の忠告に従って学校を休み、ひたすら睡眠をむさぼった。時折目を覚ましては、高カロリーの食事を山と摂取し、また眠った。体が失った力を取り戻そうとしていたのだ。

 だからこそ、崇史の体感では、約束の夜はまさに一瞬でやってきた。


 いっぽう、その少女にとり、夜までの時間はあまりにも長かった。

「ご来店ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 柔和な笑みで緩やかに一礼。職歴の厚みを感じさせる洗練された動作には、何らの瑕疵もない。

 そこは駅近くのファミリーレストランであった。モノトーンの制服を着た彼女は、おそらく自身の勤務時間における最後の客であろう人物を見送った。顔を上げた彼女は、小さく一息をつき、窓の外を見た。

 太陽はすでに落ち、街路は夜の闇に染まっている。

 待ちかねた夜だ。ようやくやってきたのかと、少女の気は昂る。

『いよいよね』

『いよいよですな』

 姿なき声に頷き、彼女は踵を返した。

 スタッフルームに入ったところで頭の後ろでひとつにまとめた髪をほどいた。生来の赤みがかった髪がはらりと降りた。

「店長、お先上がります」

 途中、すれ違った店長に声をかけると、彼はいつも通りの牧歌的な表情で「はいよー」と返事したのち、ぎょっとして振り返った。

「............何です?」

 訝しんで問うと、店長はきょとんとして、ぽりぽりと頭を掻きながら、「いや、なんだか鬼気迫る顔をしてた気がして......」と呟いた。

「やだなあ。やっと職責から解放されるのに、そんな顔するわけないじゃないですか」

「だよねぇ、あははは」

 少女は軽く頭を下げて、ロッカールームへ向かった。もはや自分の他に、誰も見るものもいない場所に到って、彼女の顔は確かに鬼気迫るものへと変貌していた。

 それは鬼のような......戦士の顔であった。

「〈魘蠱遊戯〉か......」


 そして同時刻、はるか天上の空間から、夜闇にきらめく巻根市の全容を眺める姿があった。駅周辺にひしめく高層ビル群のひとつ、その最上層の一室で、一面の窓ガラス越しに、青年は街の夜景を一望していた。

「いよいよか......」

 呟きつつ、ごくりと喉を鳴らす青年の背後に、もうひとり別の気配が湧き上がった。

「愉しみだろ?」

 小柄な男だった。まだ少年と呼ぶべき幼さがある。ただし、ぼさぼさに乱れた彼の黒髪の下から覗く表情は、年相応の無邪気さからは隔絶していた。三白眼の目を見開いて、歯を剥き出しにして笑うその様は、地獄の鬼と呼ぶべきだろう。

 窓ガラスに向かう青年は、苛立ち交じりに答えた。

「何が愉しみだ。まったく野蛮だよ。品性がない」

「くははっ、今さら善人ぶってもおせーっつーの!!」

 少年は腹を抱えて笑った。笑いながら、指さして言った。

「後生大事に招待状握りしめておいてさ。素直じゃねーよな、あんたは!」

「言ってろ」

 青年は大きくため息つきながら、再び巻根市の夜景を眺望した。

 その美しい景色に、青年は一寸も心を動かされることなく、のっぺりとした黒塗りの絵を眺めるように視線を巡らし、いささか普段よりも高い声で独言した。

「〈魘蠱遊戯〉、ね......」

 彼の背後で、小鬼がくつくつと不気味な笑い声を上げ続けていた。


「〈魘蠱遊戯〉......」

 禮泉崇史は自室でストレッチし、長い睡眠でこわばってしまった手足をほぐしていた。

「なあ夜叉姫、僕らは本当に、このままここにいればいいのか?」

「定刻になれば、向こうからお呼びがかかるはずだ」

 夜叉姫は先程から、窓の外を睨みつつ微動だにしない。崇史は「そうか」と頷いて、柔軟体操を続けた。

 昼間に比べれば、彼の体調はかなり回復していた。快癒とはいかないまでも、やはり夢巫子の治癒能力は底が知れない。この調子なら、多少激しく運動する羽目になろうとも、問題ないだろう。

 崇史は腰を折り曲げつつ、ちらりと時計を確認した。

 現在、午後十時五十八分。

「細かい時間の指定がないからなあ......」

 机上に置いた招待状を見、独り言ちた。

「君は何らか予想がついているんだろう? 夜叉姫」

 彼女は外の夜闇を睨みつつ、こくりと頷いた。

「血染めの月夜......というのは、たぶん、我が故郷の空のことよ」

「それって、なんちゃら異界?」

「夢境異界ぞ」

 夜叉姫は〈魄喰刀〉を抱えて、鋭い視線をこちらに向けた。

「我らはあの世界に呼ばれているのやもしれぬ」

「......『追い出された』と言ってなかったか?」

「うむ、ゆえに確証はない。待つより他にないということだな」

 再び彼女は、窓の外へと視線を戻してしまった。

 いったい何が起ころうとしているのか、想像もつかないまま、漫然と時間を浪費している。室内を占めるのは、時計の針の進む音のみ。チク、タク、チク、タク。秒針がうるさいほど耳に響いた。

 静寂の重さに耐えきれず、崇史がしじまに石を投げ入れようと口を開きかけたとき、夜叉姫が鋭く言った。

「来る」

 時間にして、七月十三日午後十一時ちょうどのことであった。

 突如、部屋を支配する静寂が、ずしりと重くなった。これまでとは静けさの質が違った。まったくの無音だ。双肩にのしかかり、押しつぶそうとするような重苦しい沈黙である。この重圧がどこから来るのかわからなかった。得体のしれない不気味さだ。

 しかしやがて、この静寂の出所がわかった。

「時計が......」

 目覚まし時計の秒針が、ピタリと止まっていた。つい先刻まで、チクタクと静寂のなかを波立たせていたというのに、それが頂点を指したまま停止していた。

「故障か......?」

 時計に触れようと手を伸ばした。次の瞬間、

「............えっ?」

 彼の手が、時計を貫通して、すり抜けた。

「何だこれ」

 再び手を伸ばすも、彼が触れようとした途端、時計は蜃気楼のように彼の手をすり抜けてしまう。

「すでにここは、次元がずれてしまっておるのだ」

 横合いから夜叉姫が口を出してきた。

「ここはすでに、貴公らの世界ではない。間もなく、完全に『切り替わる』だろう、ホレ」

 言って彼女は、窓の外を指さしてみせた。崇史もつられてそちらを見やる。そして、絶句した。

「何だ......これは」

 慌てて窓に張り付き、外の光景を目にした。

 世界が崩れていた。

 本来そこにあるべき住宅街の夜景が、この世のものとは思えない異形へと、その姿を変えていた。住宅の屋根やガラス窓、街路樹、コンクリの地面......それらの表面が、卵の殻が剥かれていくように、ぺりぺりと剥離し、宙に浮かんでいった。街の「表皮」が引きはがされているのだ。

 その「表皮」の下に秘められていたものがなんであるか、崇史にはよくわからなかった。見えていたにもかかわらず、認識できなかった。視覚的には、ただの暗闇であるように見えた。のっぺりとした、黒い影の塊のようなもの。だがその影の下には、海よりも深い、宇宙的な奥行きが備わっているような気がした。

「剥離」現象は、街の中心から外縁に向かって、次々と広がっているようだった。ここも間もなく、あの現象に巻き込まれるであろう。

「主どの、着甲を。あの中では、人間は生身のままでは生き残れぬ」

「......了解だ」

 迫りくるものが、常人の生命にとり驚異であるということは、見るからに想像がつくことだ。崇史は夜叉姫に向きなおった。彼女は力強く頷いて見せた。

『我、悪徳世を覆うを許さず、道理道義の防人たるを欲す。

 大敵眼中にあり。焉んぞ其の初志を遂げざらんや!』

 崇史は窓の外の闇に向けて叫んだ。

『着甲! 魘鎧〈夜叉〉!!!』

 夜叉姫の体が光の粒子となって弾けた。光は崇史の周囲に渦を巻き、凝集し、白黒の鎧姿を構築した。小具足に覆われた崇史の額に、一滴の光点がしたたり、それが般若面と黒色の鬣を成した。

 直後、外で繰り広げられていた「剥離」現象が、ついに禮泉の家にも到達した。窓ガラスがぎりぎりと歯ぎしりするように鳴り、ひび割れていく。部屋の壁や天井も同様だ。ひび割れは次々と伝播し、広がって、ついに彼の周囲の景観はボロボロと崩れていった。

「夜叉姫! これ、本当に大丈夫なのだろうな!?」

『任せておれ! 主どのは、自分の意識を保つことに専念せよ!』

「そんなのどうやって! うお!」

 景色のほころびから、どす黒い闇が次々と頭をもたげてきた。その闇の向こうに広がる次元は、人間の認識を超えており、それに焦点を合わせた瞬間、崇史は自己と世界とを隔てる意識が朦朧とするのを感じた。

 闇は津波のように盛り上がり、渦潮となって周囲を渦巻き、物質的なすべての存在を洗い流そうとした。それはまさしく嵐であって、渦中の崇史は、一片の木片を頼りに嵐の海に放り出されたような気がした。

 頼りになるのは夜叉姫のみだ。崇史は自身の体を覆っている彼女に取りすがるように、身を丸く縮めた。

「頼んだぞ! 頼んだからな!」

『大船に乗ったつもりでいよ!』

 直後、どす黒い海嘯が崇史の体を攫った。彼の体も、意識も、途方もない深みへと吸い込まれていき、右へ左へもみくちゃにされる。意識などとても保てない。そう諦めかけたとき、彼の背をしっかりと抱きとめる温もりを感じた。その正体に思いを致す余裕すらなかったけれど、彼はどうにか、目を開け続けることができた。

 気づいたとき、あのどす黒い影はどこにも見えなかった。

 彼は再び、何の変哲もない自室に、鎧姿のまま立っていた。

「ど、どうなった......?」

『ふむ、窓から外に出てみようか』

 いささか疲れた様子の声が返ってきた。提案に従って、窓を開けてみた。何の変哲もない、夜の住宅街である。

 崇史は面食らいながらも、窓枠に足をかけ、向かいの通りに飛び降りた。コンクリの地面に足を着いた。そこで夜叉姫が、乾いた笑い声とともにこう言った。

『見よ、あの空を』

「空?」

 言われた通りに見上げた。

 そして、ぞっとして立ちすくんだ。

「なんという......不気味な」

 今に至って、アマランサスの招待状で使われていた「血染めの夜」というフレーズの意味が分かった。

 それは確かに、血染めと評するに相応しい空だった。

 どす黒い闇と、鮮烈な朱。その二色が混在し、渦を巻いて混ざり合い、波打つ空は、明らかにこの世のものではなかった。夕日の赤、などという次元ではない。まさに鮮血の色合いだ。それが、岩礁に打ち付ける荒波のように、右に左に暴れ狂い、波打ち、一時も定まることなくうごめいているのだ。

 まさしく異界の空である。

 そしてその中心にある月は、現実のそれと比して、あまりにも巨大だった。すぐ鼻先に月があるかのように、空にぽっかりと大穴を開けたように、朱染めの満月が顔を出しているのだった。

「本当に、血染めの月夜だな」

 実感を込めて呟いた崇史の心に、ふいに、何かがかすめた。

――血染めの空。

――燃え上がる空。

――どこかで、似たような光景を見たような......。

 遠い夢の中のことだったのだろうか? 崇史は首を傾げた。けれど記憶は、ぼんやりとして遠ざかって行ってしまう。

「うむ、間違いない。ここは我らの故郷〈夢境異界〉だ」

 夜叉姫の断言に、はっと意識を現実に戻された。

 崇史は周囲を見渡した。異界といっても、あの不気味な空以外は、現実世界とまったく違いがない。

 崇史の訝りを察してか、夜叉姫が問うより先に答えた。

『〈夢境異界〉は現実世界と重なって存在する、異次元の空間ぞ。基(もとい)は貴公らの世界と共有しておる。姿が似ているのは、そのためよ』

「ここにも人は住んでいるのか?」

『否。この世界に存在する生命体は我らをおいて他にない。ためしに家の中を見てみてはどうだ? 貴公の家族はここにはおらぬ』

 その言葉に従って、再び窓から自室に戻り、家の中を見回ってみた。確かに禮泉家はもぬけの殻になっていた。

『我らふたりのみが、この世界に引きずり込まれたのだ』

 そう説明した後で、彼女はしばし口ごもり、その後苦笑しつつ発言を訂正した。

『いいや、きっとあと七組、ここに呼ばれた者らがいるのだろうな』

 崇史はごくりと喉を鳴らした。

 家の外に出る。

「驚きだ......。だが夜叉姫、これは君たち魘の念願が叶ったということにはならないのか? この世界に戻るのは、君たちの目的のひとつだったんだろう?」

 率直に問いかけるも、答える夜叉姫の歯切れは悪い。

『うむ、であるが......おそらく長居は出来ぬだろう』

 希望的な観測は何ひとつ持っていないようだった。

『主どの、ひとまず指定の場所へ向かおう。あの招待状の通りにな』

「場所? ......ああ、『神樹の墓所』か。どこだこれは?」

『心当たりはある。案内いたそう』

 招待状にて、集合場所は「神樹の墓所」と指定されていた。崇史には聞き覚えのない場所だった。けれど夜叉姫は『見ればわかる』という。

 はたしてその地は、確かに一目瞭然で「神樹の墓所」と判別つくものであった。

「実に『異界』的な光景だな......」

 それは巻根市の中心、現実世界では市庁舎が所するあたりであった。

 巨大な樹が、半ばよりへし折れて横たわっていた。

 いや、単純に「巨大な」と言い表せるサイズではない。それはあまりに大きな、リアリティなどいっさいを無視した巨大さだった。民家よりも、アパートよりも、そこらのビルよりもはるかに大きい。あれが正常に天を向いて屹立していたら、きっと東京タワーほどの大きさがあっただろう。

「確かに『神樹の墓所』だ」

 崇史は坂の上の住宅街から、その壮観な景色を見下ろしていた。

「壮絶だ。なあ夜叉姫」

 素直な感想を口にした。しかし夜叉姫はうんともすんとも言わない。大樹の姿を前に、じっと黙りこくっている。

「夜叉姫?」

『えっ......ああ、そうだな』

 心ここにあらずだったようだ。

『気を付けて進め。あの招待状がすべての魘に配られたなら、奴らは一同にここへ会することとなるはずだ』

 気を取り直した様子の夜叉姫の忠告に頷いて、崇史は歩を進めていった。

 結果的には、崇史の道程は実に安全であった。それもそのはず、すでに崇史は他の魘たちに比して、実は集合の時点でかなりの遅れを取っていたのだから。

 市庁舎と周辺のビルを押しつぶした瓦礫の上に横たわる神樹。その足元に到達するころには、崇史にも周囲の気配が識別できた。

「彼ら」は逃げも隠れもせず、堂々とそこに集っていた。

 はじめに目についたものは、神樹の向かいにあるビルの、砕けた窓枠に腰かけた小柄なシルエットだった。細身の鎧の上に、灰色の襤褸をまとっている。フードを深々とかぶっているが、その下の顔は鬼のそれだ。

 月曜日の夜に相まみえた、連続殺人犯であった。

「あいつ......!」

『待たれよ!』

 思わず飛びかかろうとした崇史を、夜叉姫の鋭い声が制止した。

『周りを見よ。こんなところでちょっかいをかけるのは愚の骨頂ぞ』

 指摘され、改めて周囲を見やった。狭まった視野を広げた途端、目に入ってくるものに崇史は息を呑んだ。

『全員、魘か』

『いかにも』

 殺人鬼を含め、そこには七人の人影があった。

 市庁舎の前広場を囲う桜並木、そこにまずひとり、白銀の輝きがあった。昨夜崇史と一戦を交えた、乾闥婆である。彼女は腕を組んで、堂々とその場に佇んでいた。

 また彼女の近くには別の人影もあった。うず高く積もった瓦礫の山の上にひとりだ。彼(彼女?)はモノトーンのローブを纏っていた。さらに視線を左に転ずれば、崩れたビルの壁面を背にしてふたりの人影が並び立っている。

『上にもおるぞ』

 指摘されて視線を頭上に巡らせると、確かにいた。ビルの屋上にひとり、近くの鉄塔の先端にもうひとり、だ。ビルの屋上にいるほうは、ここからではあまりよく姿が見えない。対して鉄塔のほうは、見覚えのある姿だった。

『あいつは、あの時のやつだな』

 その者の全身は黄金の輝きに包まれていた。間違いない。月曜日の夜、アマランサスの傍らにいたあの魘だ。

 彼らはそれぞれの間に広く距離を置いていたものの、格別隠れたりはしていない。彼らに倣って、崇史もそのまま堂々と街路を進み、市庁舎前の空き地に足を踏み入れた。

 途端、周囲からの視線が自分に集中したことがわかった。

 緊張に心臓が締め付けられた。崇史は一度大きく深呼吸して、身をほぐそうとした。

 直後のことである。

「これで、最後のひとりが揃いました」

 朗々と声が響いた。少女の声だった。魘たちがいっせいに声の方向に視線を向けた。

 声は横たわる神樹のほうから響いた。大樹から天に向かって張り出した一本の枝、その先端に人影が立っていた。

 赤黒い鳥のマスクをかぶる、少女の姿だった。

「これより予定通り、〈魘蠱遊戯〉のオリエンテーションをはじめます」


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