祖父の庭の草藪から、蜥蜴(とかげ)が小さな頭を覗かせた。青々とした小草の群を腹に敷く、ひょろりとした錆(さび)色のからだ。丸い目を、じっと前方に凝らしている。

 古さびた鉄に似たその姿を見つけて、少年はあっと声をあげた。長らく大切にしていた宝ものが戻ってきたような、霧の晴れるような喜びを感じ、ようし逃すまい、捕まえてやろうと息巻いた。大昔の恐竜の時代を思わせる蜥蜴の姿は、少年を幻想の世界に誘う。彼は蜥蜴を好んでいた。

 蜥蜴は滑るように草々の密林をすり抜けて、こぶし大の土くれの真ん前で立ち止まった。少年は一歩草むらに足を踏み入れて、その背後に回り込んだ。そろり、そろりと、音が鳴らぬように、慎重に土草を踏みしめて、近寄った。蜥蜴は前ばかり見ている。少年は息さえ止めて、しばしその場に潜んだ。

 胸郭の内で三度目の鼓動が鳴ったとき、少年のつま先、腰、腕、指先が、鳶(とび)になったように風を切った。――ぼくは鳶になって――蜥蜴を手にした。はじめは、人差し指と親指で、強く蜥蜴の脇腹を挟んだ。ざらりと乾いた、体温のないからだにもかかわらず、膨らんだり、縮んだりを繰り返す腹のうごめきに、生命の宿りを感じた。

 やがてゆっくりと指の力を抜いて、その代わり、もう片方の空いていた左手を、蓋のようにかざした。少年は、決して取りこぼしたりしないように、錆色の宝を手のひらの内に閉じ込めた。

 はじめ、少年はその蜥蜴を虫かごに入れた。父に買ってもらった虫かごだ。プラスチックの容器に、緑色をした格子状の蓋がついている。容器の底に土を敷いて、石と小枝を置き、中に蜥蜴を放した。

 土の絨毯を踏んだ蜥蜴は、身をくねらせ、走り、透明なプラスチックの壁に額をつけた。

 少年は蜥蜴と目を合わせた。体温のない丸い瞳は、今何を考えているのだろう? ――チクショウ、こんなところに閉じ込めやがって! ――いいや、ありがとう、君に会えて嬉しいよ。

 すると蜥蜴はあっさりと視線を外して、日差しが暑かったのか、小枝と石の隙間に潜ってしまった。だから少年も、彼(彼女?)の心情を想像することをやめた。

 そのとき家の駐車場の方から、低く唸るような音が響いてきた。車のエンジン音だ。その音が近くなって、やがて止まり、すぐにバタンとドアの閉じる音がした。

 少年は虫かごと、音のした方向とを交互に見比べ、やがて意を決し、虫かごを縁側に置いた。駐車場は、家を挟んで庭の反対側だ。少年は一度靴を脱いで家に入り、キッチンの脇を通り、裏の玄関へ向かった。

 裏口の小さな扉を開けて、母が午前の仕事から帰ってきた。それも、深い深いため息をからだにまとわせて。

「おかえりなさい」

「......ただいま」

 母の視線は、少年の顔を素通りして、その奥のキッチンに向いた。硝子のコップが、洗わずにシンクに伏せてある。それを見つけた途端、母の頬がぴくりと動いた気がした。眉間に谷のようなしわが寄っている。

「お母さん、ボクさっき、蜥蜴捕まえた」

 深く刻まれた母のしわを見ないふりして、首を庭の方に回した。そちらを指さしてから、もう一度、今度はゆっくり、母に振り向いた。

 母はここに至ってはじめて息子の目を見た。

「そう、よかったじゃない」

 彼女は肩から提げていた鞄を降ろし、右手で引きずるように持った。

「お母さん、昼寝ね」

 そう言ってすぐに、母は玄関の左手にある、二階への階段に足をかけた。

 少年はしばらく、その背を目で追った。階段の半ばで、母は一度だけ、こちらを振り向いた。

「あんた、将来のこと、自分で考えるのよ」

 険しい声でそれだけ言い捨てて、つかつかと踊り場の向こうに姿を消してしまった。

 少年は呆然とその場に立ち尽くし、急な階段を見上げていた。彼にとり、その階段は富士山よりも高く険しいものに見えた。

 だから庭に戻った。

 傾きかけた太陽の下に出た。

 母の声が、まだ耳の内側に残っている。――将来のこと......。

 少年は耳を塞いだ。けれども頭の中に響く声は、行き場を失って、余計に大きくなるばかりだ。

 そのとき縁側に置いた小さな虫かごが目に入った。錆色の蜥蜴が、透明な壁越しにじっと少年を見ていた。

 その視線に気を取られた少年は、無意識に両手を耳から降ろしていた。

 祖父の庭は広い。山のふもとにあって、林に囲まれている。幾重もの風に流され、さざめく木々の聲(こえ)が、少年の耳を通って、頭の中に満ちあふれた。いつの間にか、母の声を忘れていた。

 虫かごを手に取った。ほんの少し、かごが後ろに傾いだ。敷き詰めた土がさざ波を打って流れた。驚いたように、蜥蜴が小枝の下から這い出した。

 プラスチックに囲まれた小さな部屋。蜥蜴はもう、少年が許さぬ限りここから出られない。――そんなのあんまりだ――彼は虫かごを置いて、家の倉庫からシャベルを引っ張り出してきた。それを持って、庭の隅、花壇の傍へ向かった。

 この場所は、砂場代わりに穴を掘ったり、山をつくったりすることが許されている。何度も掘り返した結果、他よりも軟らかくなっている地面に、少年はシャベルを差し込んだ。

――山をつくろう。

――谷をつくろう。

――川を、洞窟を、家をつくろう。

 あの蜥蜴を、そうして築き上げた世界に放つのだ。あの狭いプラスチックの檻でなくて、より広々した庭を、彼(彼女)にあてがってやりたかった。

 少年は夢中になって、土を掘り、石を積み、ジョウロの水を流し、花を植え、蜥蜴のための庭づくりに奔走した。

 そうこうしているうちに、さらに日が傾いて、まもなく夜といった頃合いに。すると縁側から祖母の声が飛んできた。

「ご飯だよ。もうお上がり」

 少年は祖母の顔を見、つくりかけの庭を見、もう一度祖母の柔らかな表情を見て、頷いた。蜥蜴の庭は、もうほとんど完成だった。明日には......雨さえ降らなければ......蜥蜴を放てるだろう。

 少年はすぐにシャベルを片付け、泥んこの両手を水道ですすいだ。

 家に戻るとき、ついでに蜥蜴の様子を見にいった。日陰に押し込んだ虫かごの中で、錆色のからだは、また木と石の隙間に潜っていて、ほとんど見えなかった。

 少年は未練がましく虫かごの前に張り付いていたけれど、もう一度祖母の呼び声が聞こえて、渋々その場を離れた。

 明日になっても、かごの中の宝ものは逃げやしないと、わかっていたからだ。


 暗闇の中で目を開いた。少年は仰向けに寝そべっている。黒い闇のベールの向こうに、光を消した蛍光灯がぼんやり見える。

 何だか目が冴えて眠れなかった。瞼の裏側で、蜥蜴が忙しなく走り回っていて、少年の眠りを妨げているのだ。

 早く寝なさいと、母が催促する声が聞こえた気がして、きつく食いしばるように目を閉じた。しかしそうすると却って、目を開けていたときよりも、瞼の裏に鮮烈な色彩が溢れて、それに気を取られてしまうのだ。水面に幾種もの水彩絵の具を垂らしたように、沈み、浮き上がってくる色々。それらはやがて一つの場所に集まって、ひょろりとした細長い形状に固まっていく。蜥蜴の形だ。瞼の裏にいる蜥蜴は、七色よりもさらに多くの色彩から出来ていた。しかしその色は、あまりにも多く混じりあってしまったせいで、濁り、最終的には錆の色に変わった。それがきつく閉ざされたまなこの上を、自分の存在を誇示するように駆け巡っている。

 少年は堪らず目を開けた。暗闇のベールの向こうに、円い蛍光灯が見えた。

 そこで彼は、ふと隣を見て、そこにあるはずの母の寝姿を探した。しかし目前の布団は空になっていた。

 途端に少年は、自分を包む闇の帳に、言い知れぬ恐怖を覚えた。祖父の家の天井に、まだ慣れていないせいだろうか。蛍光灯の形も、布団のぬくもりも、まだどこか少年に対して他人行儀なのだ。だから、この家は自分を得体のしれない夜の魔物から、完全には守ってくれないだろうと思った。

 少年はまた強く目をつむって、寝よう寝ようと努めたが、ついに耐えられなくなって起き上がり、電気のスイッチを入れた。

 部屋に明かりをつけても、母の姿は見えない。どこに行ったのだろうか。少年は寝室からひっそり抜け出した。

 寝室は二階にある。一階に続く階段に歩み寄り、そこから下を覗き込むと、居間の方角から仄かな明かりが漏れていた。きっと母はまだ居間にいるに違いない。少年はほっとして、転ばないようにゆっくりと階段を下った。そのとき、明かりのある方向から、野太い男の声が聞こえてきた。

「だから、いつまでもあの男にしがみついてたって、しょうがねえだろ」

 祖父の声だった。地鳴りのように低く響く声だが、今日はいつにもより声の調子が高い。酔っているみたいだった。

「今更どうしようもねえんだから、腹くくれや」

「でも、あの子にはまだ......」

 答える声は母親のものだった。それに対し、祖父の声が覆いかぶさるように続けられる。

「いいか、世の中には片親の子なんて山ほどいるんだ。何も特別なことじゃない」

――ぼくのことを話しているんだ。

 それに気づいた途端、少年は自分の心臓の鼓動が、急速に早まるのを感じた。少年は階段の途中で縮こまって、二人の会話に耳をすませた。

「そんな言い方ないでしょ。もっと優しく」

「お前のことを考えて言ってんだ。優しくもクソもあるめえ。俺は事実を教えてるんだぞ」

「私もいろいろ考えて言ってるの。あの子のためにね。お父さんはあの子が何歳だと思ってるの? まだ九歳よ! それに私が、いったいどれだけあの子を大切に思ってるか......」

「わかってる、わかってるさ」

「だったらそれを踏みにじるようなことを言わないで」

 そこまで聞いて、少年は目をつむって耳をふさいだ。二人の口から、もうこれ以上一言だって、自分のことについて話しているのを聞きたくなかった。――二人ともぼくのことなんか見てやしないのに――少年は階段を駆け上り、寝室の布団に飛び込んだ。

 目をきつく閉ざした彼の脳裏に浮かび上がったのは、またも蜥蜴の姿だった。それも、虫かごの中の姿である。蜥蜴を囲む壁は透明で、一見すると何もないかのようだ。しかしそれはまったくの錯覚で、そこには虫かごの中の世界と、外界とを隔てる壁が確かに存在しており、それが蜥蜴を不自由に閉じ込めている。

 少年は薄く目を開けて、自分を取り巻く他人行儀な暗闇を睨んだ。その闇の中に、複数の人の顔が浮かんできた。すべて家族の顔だった。いくつもの顔が少年をぐるりと囲んで、見下ろしている。彼らは口々に何かを語りかけてくるが、誰一人として少年を見ていなかった。まるで平坦な壁のように、彼らは少年を囲って閉じ込めていた。

――ぼくだって不自由だ。

 少年の目尻から、ひとしずくの涙がこぼれた。

 翌日はからりと晴れた、よい天気だった。少年は昨日よりもなお一層しゃかりきになって庭づくりに奮闘した。土くれを四角く積み上げ、穴を開け、それを家に擬した。砂山の頂上に窪みを掘り、ジョウロの水を注いで湖にした。昨日までにほとんど完成の目途をつけていたから、そこから先は早かった。

 一時間も経たぬうちに、花壇の一角には立派な庭が出来上がっていた。少年のふくらはぎほどの高さの山。濁った泥の泉。急峻な渓谷。その脇には土の家と、雑草の林。

 汗を拭い、少年はふくよかな喜びを胸に抱いた。これでプラスチックの壁は不要になるだろう。この庭が、蜥蜴の新たな居場所となるのだ。

 少年はさっそく縁側に虫かごを取りに行った。蜥蜴は相変わらず小枝の隙間でじっとして、少年を見ている。かごの持ち手を握り、花壇の傍まで連れて行った。

 地面に虫かごを置き、蓋を開けた。四角く区切られた小さな蜥蜴の世界が曝け出された。土と石と小枝だけの空間を、上から見下ろした。――きみのための庭をつくってやったぞ。だから喜べ――いつの間にか少年の口角がつり上がっていた。

 かごの中に手を差し込んだ。蜥蜴は一度彼の手をすり抜けて走ったが、狭いかごの中ではそうそう逃げられるはずもなく、あっさりと幼い指に捕らえられた。

 錆色をした宝もの。そろりそろりと、それを持ち上げていく。蜥蜴の足が土の絨毯を離れた。彼(彼女)は今まさに、不自由な透明の檻から抜け出すのだ。

 蜥蜴のからだが虫かごを出た。四本の足が無力にも暴れ、尻尾が諦念を示すように項垂れた。

 そのとき少年の頭から、ふとこんな考えが沸き上がってきた。今自分は、祖父の庭の花壇の前にしゃがみこんでいるが、それは錯覚で、実は昨日の夜の階段の半ばから、まだ一歩も動いていないのではないかと。目線を下げれば、まだそこにうすぼんやりとこぼれる、居間からの明かりがあるのだ。

 あの居間の明かりも、プラスチックの壁に似ていると思った。透明で、中にいるものを逃がさない。世界はプラスチックだらけなのだと思った。自分でつくり上げた蜥蜴の庭も、実は透明なプラスチックに囲われているのではないか。そんな気がして、ぎくりとした。

 するとその想像に気を取られてしまったのだろうか、少年の指から力が抜けた。蜥蜴はその隙を逃さなかった。少年の手を巧みにすり抜けた蜥蜴は、砂山の中腹に着地するや、猛烈な速度で駆け出した。

 あっと叫んで、慌ててそれを捕まえようと手を伸ばした。少年の手が、ざらりとした冷たいからだを掴んだ。そこで、ぷつり、と何かが切れる感触があった。

 握った手を開くと、そこにあったのは、小さな蜥蜴の尻尾だけだった。本体から切り離された箇所から、生々しいピンクの肉が覗いている。

 はっとして周りを探したが、あの錆色の宝ものは、まるで一夜の夢だったかのように、影も形も見えなかった。少年はどういうわけか、それを探す気になれなかった。

 あの蜥蜴はきっと、どこにもプラスチックのない世界に行ってしまったのだ。自分をこの虫かごに置き去りにして。

 唯一残された小さな尻尾は、きっと蜥蜴にとっての最後の未練なのだ。少年はそれを大きく振りかぶり、草藪の向こうに投げ捨てた。

 結局、蜥蜴の庭など、これっぽっちも必要とされていなかった。なぜならそれは、虫かごと変わらないから。――ぼくは自分が大人になっても、また虫かごをつくるのだろうか。鳶にも蜥蜴にもなれないままに。

 少年は穏やかな嘆息とともに、積み上げた砂の庭園を、丁寧に蹴り崩していった。

                                      ――完