仇討ち

「仇討ちじゃ」

 ぬるりと鞘を引く鉄太郎に、亭主はぎょっと目を開いた。

「誰じゃ、なんじゃ、おまあ」

「佐々木道助の子じゃ。忘れたか」

 その名が出ると、亭主の目は血走った。

「道助。知らん、そんなもんは。出てけ」

「公儀様より許しも出とる。覚悟せえ」

 蔭の濃い夕暮れの座敷に、刃だけが白い。鉄太郎は刀を振りかぶり、しゃにむに振り下ろした。四年余りかけて煮詰めた瞋恚の太刀だ。けれど間合いは遠い。頭を抱えた亭主の、袂だけがすっぱりと裂けた。

「ひいっ」

 亭主は尻餅をついて転がった。目の前にある刃の白さが信じられない。それが自分に向けられていることが、なお怖い。

 鉄太郎の頭にはかっと血がのぼっていた。どうしてはじめの一振りがなんの手ごたえもなかったのかと逆上した。

「この、動くな」

 もう一度頭の上に持ち上げた刀は軽かった。両腕は重く引きつっていたが、痛みを意識することもない。

 刃が再び落とされる寸前、亭主の頭に、床の間の打刀のことがよぎった。亭主は乾坤一擲、畳の奥に身を投げた。ひゅっ、とうしろで音がして、切っ先が畳に沈んだ。

 障子越しの赤い日差しを浴びて、鉄太郎はすごい形相だった。歯を犬のように剥いて、目じりには涙が盛り上がる。振り返った亭主にはその様が見えた。かつて見た、こぼれるはらわたをかかえた男の顔を思い出した。殺されると思った。

 亭主は夢中で駆け出した。前身頃を踏んで転んだ。手をついて立った。前がはだけて、ふんどしが見えていた。気にする者は誰もいない。

 床の間に飛び込んだ亭主は刀掛けへしたたかに脛を打ち、悲鳴を詰まらせた。衝撃で脇差が床に落ちて激しく鳴った。けれど亭主は、打刀の柄を掴んでいた。足を駆け上る痛みで頭は真っ白だったけれど、握った柄が安堵をもたらした。鞘を抜かぬうちから、これで何もかも丸くおさまるような感じがして、気が緩んだ。

 その背中に、激しい衝撃があった。背骨をがつんと殴られたような。

 目の奥で火花が散って、何がなんだかわからぬまま、たまらず前に倒れた。亭主の広い額が掛け軸にぶつかって、頭の上に落ち、顔の前に垂れ下がって視界を遮った。

 その無防備な背中に、鉄太郎の刃がまっすぐに突き立てられた。

「けえっ」

 鳥を締めるような声が、掛け軸の向こうで鳴いた。鉄太郎には亭主の顔が見えていなかった。人の形をした、重く柔らかいかたまりを突いただけのような心地で、奇妙に感慨もない。

 そのせいか、頭がひどく冴え冴えとして、肉が締まってしまう前に刀を抜かなくてはならぬなどと、落ち着いた発想があった。鉄太郎は亭主のまだ温かい背中に足をかけて、柄を引っ張り、肉と骨のかたまりから抜き出した。

 鼠色の小袖に、じわじわと黒いものが広がっていく。それが足もとに伝う前に、壁に頭を預けていた亭主はずるずると落ちて、床の間に力なく広がった。

 この男はずいぶんと大きな体をしていたのだなと、今さらなことに意識を取られて、鉄太郎は血振りを忘れた。刀を右手に提げたままそろそろとうつぶせの体に近づいて、頭にかかった掛け軸をめくってみる。

 ぎょっと見開かれた目が、あらぬほうを向いて固まっていた。口からは赤々とあぶくが立っている。顔は血の気がなくて青い。座敷の蔭が乗り移っているのか、どんどん膚が黒くなって、薄暗闇に馴染んでいく。ものすごい顔だ。

 凝ッと見ていると厭になって、鉄太郎は掛け軸を顔の上に戻し、さっさと隠してしまった。顔が見えなくなると、目の前の男の体が、犬や牛の遺骸と変わらないような気がして、心がふっと軽くなった。

「ああ、終わったあ」

 全身の力が抜けて、今にもへたり込んでしまいそうだったのに、右手だけがきつく柄を握って離さなかった。

 座敷は夕陽を吸って赤々として、今やまぶしい。鉄太郎の頭の中に、ふいと故郷に残した義母の背中が浮かび上がって、夕焼けに焼きつけられたようにいつまでも離れなかった。義母の袂から、まっしろな指がほんのわずか顔を出していたのを思い出した。

 血振りを忘れた鉄太郎の刀は、既に血を吸って、日蔭に黒々と澱んでいた。